得宗北条はこうして天下を征服した その6
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- 2020/02/21 16:21:34
治承4年(1180)11月4日。上総広常、千葉常胤、三浦義澄らの佐竹討つべしの言を入れた頼朝は平家追討を諦めて常陸国府に入る。当主佐竹隆義は在京中で留守、嫡男佐竹義政は縁者の上総広常が誘い出して誅殺、金砂城に立て籠もった三男の秀義はよく戦ったものの、頼朝方が秀義の叔父佐竹義季を味方に引き入れて義季の手引きによって金砂城を落した。秀義は奥州に落ち延び、のちに頼朝に赦されて奥州合戦では頼朝方として戦っている。
さらに寿永2年(1183)2月、野木宮合戦で志田義広、足利忠綱らを破って坂東を平定する。志田義広は頼朝の父義朝の弟で、足利忠綱は藤原秀郷を祖とする藤原流足利氏。鎌倉を攻めるために兵を挙げたと言われているが、実際のところは小山朝政が志田義広を謀って待ち伏せして討った戦いであり、はじめから小山庄が狙いであった可能性もあった。このときに平治の乱のときには存在が確認されなかった義朝の遺児範頼が小山方として戦っている。
養和2年(1182)3月に鶴岡八幡宮の参道として若宮大路が造成される。北条政子が頼家懐妊のときで安産祈願として造られたと言われているが、二ノ鳥居あたりから鶴岡八幡宮へ向けて少しずつ道を狭く造る遠近法の手法で鶴岡八幡宮を大きく見せるように造ってあり、「吾妻鏡」にも「鶴岳の社頭より由比の浦に至るまで、曲横を直して詣往の道を造る。これ日来御素願たりといへども、自然に日を渉る」とあって、以前からの宿願だった湿地帯に馬が通れる道を政子の懐妊にかこつけて作りあげたわけだ。
同時期に頼朝は伊豆流人時代から仕えていた亀の前を右筆伏見広綱宅に呼び寄せて寵愛しており、北条時政の継室牧の方により政子の知るところとなる。激怒した政子は広綱宅を牧宗親に命じて打ち壊すという事件が起きた。後妻の家を打ち壊すうらなり打ちの起源とも言われているが、頼朝が牧宗親への叱責で髻を切ったことに怒った時政が一族とともに伊豆に引き上げたり、伏見広綱が遠江へ流されたりとの騒動となった。その後については『吾妻鏡』が欠落していてわかっていない。
つづく。