得宗北条はこうして天下を征服した その7
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- 2020/02/25 16:24:42
寿永元年(1182)、北陸宮を擁護した源義仲は以仁王の挙兵を引き継ぐと、寿永2年(1183)に野木宮合戦で頼朝に敗れた志田義広、頼朝から追われた源行家を庇護したことで、義仲は頼朝と対立。義仲の嫡男義高を頼朝の娘の大姫の婿とすることで和議が成立する。
義仲勢は平維盛が率いる大軍を北陸に受けて、越前火打城、三条野、安宅の関で連戦連敗で越中のみと追い込まれるが、今井兼平が般若野で平盛俊を破って倶利伽羅峠へ平氏勢を追い返すと、倶利伽羅峠で10万の平維盛軍を散々に破って、続く篠原でも平氏を破って、延暦寺も屈服させると、平氏は安徳天皇を擁して西国へと落ちていった。
入京した義仲は従五位下・左馬頭・越後守に叙されて朝日将軍に任命され、叔父行家は従五位下・備後守となるが、任国は変更となって義仲は伊予守、行家は備前守となった。頼朝も平治の乱以前の位階の従五位下に復帰している。
朝日将軍はまったく存在しなかった将軍職であり、征夷大将軍ではなかったかと思われる。のちに義仲は後白河法皇と対立して、頼朝勢に討たれたことから、改めて征夷大将軍に任命された頼朝が義仲の将軍職をなかったことにしたのではないか。義仲は敗者であって、どんなに功績を残しても歴史を書き残すことはできなかったのだから。
寿永2年10月に、朝廷から頼朝に「寿永二年十月宣旨」が下される。これで反乱軍だった頼朝勢は朝廷によって東国支配が認められることとなる。
寿永2年12月。上総広常と双六を打っていた梶原景時が上総広常を殺害。東国独立を主張していた上総広常に謀叛の疑いがあるとして殺害したもので、のちにこの謀叛は冤罪であったことが判明している。北条氏にとって上総広常は大きな力を持っている邪魔な存在であって、隙をみて殺害したのではないか。梶原景時は頼朝の命の恩人ではあるが、家格が第一のこの時代、鎌倉党のひとりで河原衆だった景時は身分も低く北条に命令されたとすれば逆らうことはできなかったと思われる。
つづく。
こんにちは^^
頼朝の浮気問題は、武士の棟梁で将軍家の血筋ということを考えれば異常なくらい北条氏側が怒っているのですよね。政子のうわなり打ちはドン引きするほどなんですが、伏見広綱の勢力を削ぐとか、裏の事情があったのかもしれず。一級資料がそんなに残っていないこともあって推測が難しいですね。
朝日将軍ってなあに?ってことはかなり問題になっていたのですが、記録があれば記録第一主義の学者さんは否定をしないから。
征夷大将軍というのが妥当なところなので、改竄はあってもおかしくないですね。
源氏は不思議なくらいに同族で争う氏族なので、北条氏にとっては手のひらで転がすのは簡単だったでしょうね。
「にっぽん歴史鑑定」という番組で『鎌倉殿と北条義時』が特集されていまして、
そちらでも、ここらへんのお話が取り上げられていました^^
頼朝の浮気問題で、北条時政が怒って伊豆に帰ったと言うので、
現代ならともかく、昔は女性問題でそこまで激怒するものかな?と不思議だったのですが、
その時に牧宗親の髷を切ってしまったのですね^^;それは激怒するかも…お互いにやりすぎですね。
義仲の朝日将軍任命の話は聞いたことがありませんでした。
えーと、つまり征夷大将軍に任命されていたけど、頼朝が記録を改竄したということですか?
義仲も、もっと見直されて欲しい人物ですね。
今回も興味深いお話を聞かせて頂き、ありがとうございました。
次回も楽しみにしてます(*^^*)