得宗北条はこうして天下を征服した その8
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- 2020/02/26 16:33:51
寿永2年(1183)。源義経が大軍を率いて上洛していること、多田行綱(摂津源氏)、源光長(美濃源氏)、延暦寺、園城寺らが味方についたことで、後白河院は院御所である法住寺殿を武装化する。義仲は11月19日に法住寺殿を襲撃する。平家物語によると後白河院方が20000、義仲方が7000だったが、義仲勢が奮戦して後白河院方を蹴散らして、明雲、円恵法親王、源光長、光経、藤原信行らが討死した。後白河院、後鳥羽天皇は幽閉される。義仲は前摂政松殿基房の子・師家を摂政として12月10日に頼朝追討の院庁下文が発給された。
寿永3年(1184)1月20日。瀬田を守る今井兼平500余騎には源範頼軍3万騎が、宇治を守る根井行親、楯親忠300余騎には源義経2万5000騎が攻撃を仕掛ける。義仲勢は必死の防戦をするが義経勢が宇治川を突破して京都へ入り、義仲との激戦の末、後白河法皇の御身は義経勢に保護される。
京都で義経に敗れた義仲は今井兼平が守る瀬田へと向かい、近江国粟津で合流して、甲斐源氏の一条忠頼と激突するが、圧倒的な戦力差でわずか5騎となり、巴御前との別れがあって、義仲は討死、今井兼平は壮絶な自害をして義仲勢は壊滅する。
元暦元年(1184)4月21日。義仲が頼朝勢に討たれたことで、鎌倉で人質になっていた義高の立場が悪くなり、頼朝による義高誅殺の噂を聞いた大姫が義高側近の海野幸氏を身代わりとして、女房姿となった義高は鎌倉を脱出する。しかし、夜になって義高脱出が露見して、4月26日になって堀親家らが追討軍として武蔵国で捕捉、入間河原で藤内光澄が義高を討った。その後、大姫は病床に伏せるようになり、政子の命令により義高を討った藤内光澄は6月27日に晒し首にされた。
義高の身代わりとなった海野幸氏は忠勤が認められて御家人となって、海野氏、滋野氏の基を作った。戦国武将の真田昌幸、信之、信繁らは滋野氏の流れで海野幸氏と繋がっている可能性がある。
つづく。
こんにちは^^
頼朝は義高追討のときに必要以上の大軍を出して甲斐源氏討伐をも考えていた可能性があります。
頼朝の命令なのか、それとも北条氏の命令なのかわからないですが、堀親家は頼朝旗揚げ以来の忠君なので頼朝から取り除く工作が行なわれていたかもしれませんね。
海野幸氏の忠勤振りを見ると武田勝頼、豊臣秀頼に忠義を見せた真田に受け継がれているように見えますね。
大姫は婚約者の義高が討たれたことで心を病んだ、と聞いていましたが…
政子の命令で、義高を討った藤内光澄が晒し首にされたというのは、不可思議ですね。
頼朝の義高誅殺は本意ではなかったのに、誤って討ってしまったから、晒し首にされたのですか?
それとも娘可愛さのあまり、命令に従っただけの家臣を晒し首にしたのか…
源氏は本当に容赦なしですね>_<;;
ここで真田と繋がりがある海野氏が出るとは!身代わりになった話は全然知りませんでした。
教えて頂き、ありがとうございます(*^^*)