得宗北条はこうして天下を征服した その9
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- 2020/03/05 16:34:42
元暦元年/寿永3年(1184)6月16日。甲斐源氏の一条忠頼が鎌倉に招かれて酒宴の席で、頼朝の命を受けた天野遠景によって謀殺される。
吾妻鏡では「威勢を振ふの余りに、世を濫る志を挿む」(6月16日条)とあるだけで、どうして一条忠頼が処断されたのかはっきりしたことは書かれていない。
富士川の戦いで父の武田信義、叔父の安田義定らとともに平維盛勢を破り、源義仲勢との戦いにも従軍し、粟津の戦いでは源義仲、今井兼平を討ち取っている。鎌倉方にとって戦功が大きかったわけで、元暦元年3月27日の除目では武蔵守に補任された可能性が高い。
頼朝は坂東を実質支配しており、河内源氏と甲斐源氏とふたつの武門の棟梁が並び立つことをよしとしなかった。また、後白河院が武田信義を頼朝追討使に任命したとの噂もあって、鎌倉で「子々孫々まで弓引くことあるまじ」と起請文を書かされている。その流れにおいての一条忠頼暗殺で、頼朝は義高追討と残党狩りを口実に、鎌倉から甲斐へ軍勢が出ている。
武田信義の弟の安田義定も甲斐へ下向しており、一条忠頼の暗殺によって甲斐源氏を鎌倉の御家人として組みこむために鎌倉が動いたことがわかる。
元暦2年/寿永4年(1185)3月24日。源範頼、義経率いる鎌倉方によって長門国赤間関壇ノ浦で、平氏は壊滅的な打撃を受けて政権を完全に失う。
文治元年(1185)11月12日。頼朝の乳母の比企尼の娘を妻とし、安達盛長、伊東祐清とともに流人だった頼朝を支え続けた河越重頼が義経の縁戚との理由で、所領を没収される。その後、重頼は嫡男の重房とともに謀殺される。義経の正室の郷御前は河越重頼の娘ではあるが、義経が後白河院から許可なく検非違使の任官を受けて頼朝と対立したのちに、頼朝の命令で義経に嫁いだもので、義経勢であったわけではない。後に、次男の重時、三男の重員らの名前が吾妻鏡にあることから復権はあったと思われる。
文治元年(1185)10月17日。頼朝の命令で土佐坊昌俊が60余騎で、京堀川にある義経の館を襲撃する。義経は源行家とともに防いで土佐坊昌俊を捕らえて頼朝の命令だと聞き出すと、土佐坊を梟首する。10月18日に後白河院から頼朝追討の院宣を引きだすが、味方が集まらず、逆に義経追討の院宣が出て京から落ちる。
11月3日に摂津国大物浦から九州の緒方氏を頼って出航するが暴風にあって難破して主従は散り散りになる。11月7日。義経は検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉を解任される。11月25日には、義経、行家を捕らえよとの院宣がくだされ、12月には義経、行家らの追捕のために鎌倉幕府による守護・地頭の設置を認める文治の勅許が出されている。
文治2年3月に山中で捕らえられた静御前は京にあった北条時政に引き渡され、母の磯御前とともに鎌倉へ送られる。4月8日、鶴岡八幡宮で頼朝の前で白拍子の舞を披露するが、義経恋慕の舞だったために頼朝を激怒させる。政子のとりなしで助命されるが、閏7月29日に静御前が産んだ義経の子どもは男子で、安達常清によって由比ヶ浜に沈められた。
その後、9月16日に磯禅師と静御前は政子と大姫のとりなしで京へ帰された。
文治2年5月。和泉国日根郡で匿われていた源行家が密告によって北条時定らに捕縛される。山城国赤井河原で子の光家、行頼とともに斬首された。
文治2年6月16日。義経一行と別れて大和国宇陀郡に潜んでいた源頼政の孫の有綱は北条時定らに発見されて自害している。
文治2年7月25日。義経郎党の伊勢義盛が鎌倉方に発見されて、斬首されて梟首された。
文治2年9月20日。京に潜んでいた義経郎党の堀景光が糟屋有季に捕らえられる。
文治2年9月22日。京に潜伏していた義経郎党の佐藤忠信は人妻となっているかつての恋人に文を送ったところ、夫に密告されて潜伏していた中御門東洞院を急襲されて自害する。
つづく。