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得宗北条はこうして天下を征服した その10

文治3(1187)2月。源義経は奥州藤原氏を頼って平泉に身を寄せた。藤原秀衡は正室腹の次男の泰衡を嫡男とし、側室腹の長男の国衡に自分の妻の藤原基成の娘を娶らせて、国衡と泰衡を義理の親子関係として、義経を主君と仰いで鎌倉と対抗しようとしていたが、文治31029日に死去してしまう。

文治5年(1189)閏430日。秀衡の死後、鎌倉方からの再三の圧力に耐えきれなくなった藤原泰衡が500騎を持って義経一行を衣川館に襲った。義経方は鈴木重家、亀井重清、片岡弘経、武蔵坊弁慶ら10数騎で防いだが多勢に無勢で、義経は持仏堂で正室の郷御前と4歳の娘を殺したあとで自害している。その後、泰衡は義経に通じていたとして弟の忠衡、通衡を討ち滅ぼしている。

文治57月。頼朝は「家人の義経を許可なく討伐した」として、藤原泰郷討伐に出立する。87日、阿津賀志山(現福島県伊達郡国見町)に陣を構えた藤原国衡に攻めかかるが、金剛別当秀綱らが激しく抵抗する。義経郎党の佐藤継信、忠信兄弟の父佐藤基治が伊那坂(現福島県福島市飯坂)で討たれ、10日には畠山重忠、小山朝政らが大木戸に総攻撃をかける。さらに鳥取越(現小坂峠)を迂回して国衡軍の背後を突いたことで奥州軍は大混乱に陥り、金剛別当秀綱らが討たれ、国衡も脱出しようとして和田義盛に討たれている。

阿津賀志山の戦いで戦力を失った奥州勢は多賀城、多加波々城を防衛できず、22日には本拠地の平泉が陥落する。93日には、泰衡の郎党だった河田次郎の裏切りによって殺害されて、奥州藤原氏は凋落する。裏切りによって主君の泰衡を討った河田次郎は「八虐の罪に当たる」として頼朝の命によって斬首された。

治承・寿永の乱における鎌倉方の功労者であった源義経、一条忠頼、上総広常、河越重頼、新宮行家、源有綱らは、頼朝によってことごとく殺害されている。義経は弟、行家は叔父、一条忠頼は八幡太郎義家から別れた遠い親戚、河越重頼は流人の頃になにくれと面倒を見てもらった恩人であり、源有綱は伊豆国守だった頼政の孫で、頼政が国守だったからこそ、頼朝は生きながらえたといっていい。しかし、頼朝は血縁も恩人もすべて切り捨てるように排除していく。

つづく。

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2020/03/10 15:35
>ゆりかさん
こんにちは^^
頼朝がことごとく身内を粛正しているから、幼少期に不幸だったからとか、サイコパスとかいろいろ理由付けがされているみたいです。ありえないくらい身内や恩人を殺してますからね。
北条氏による源氏は飾り物作戦だとしたら、ホントにうまく勢力争いに勝ち残っているのですよね。上総広常は兵力では北条氏はぜったいに勝てないのですが、謀殺されてます。
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2020/03/09 20:53
こんばんは、kiriさん。

身内や恩人を、ことごとく殺害していく頼朝…恐ろしいですね~>_<;;
どうして、ここまで徹底的に粛清したのでしょうか?
義経の場合は、権力争いの火種になりそうですが、かつての恩人まで容赦なしとは。
そこまで頼朝を駆り立てたものは何だったのでしょう。
頼朝の心の内を聞いてみたいくらいですね。

続きも楽しみに読ませて頂きます(*^^*)




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