得宗北条はこうして天下を征服した その11
- カテゴリ:勉強
- 2020/03/09 16:19:46
建久4年(1193)5月。富士の巻狩で大事件が起こる。
5月28日、工藤祐経を父親の河津祐泰の敵と狙う曾我十郎祐成と曾我五郎時致が巻狩の最中に工藤祐経の寝所に押し入って討ち果たし、騒ぎを聞いて駆けつけた武士たちの囲みを破った五郎時致が頼朝の寝所へ押し入るという事件で、夜中の出来事にもかかわらず翌日未明には鎌倉に「頼朝落命」の報が届くほどだった。
巻狩は征夷大将軍の頼朝が示威行為のために御家人を集めて行なった軍事演習で、突発的な出来事であったにせよ、大将軍たる頼朝の寝所に太刀をひっさげた五郎時致が押し込むという大失態があり得るだろうかという疑問がある。
曾我兄弟は仇討ちに当たって箱根権現に祈願している。この時、箱根権現別当の金剛院行実は十郎祐成に微塵丸の太刀を、五郎時致に膝丸の太刀を与えたという。金剛別当行実は頼朝が石橋山で敗れたときに、土肥実平と頼朝を匿った人物なのだが、別当は兄弟に刀を与えたときに「別当から刀を与えられたことは言うな」と口止めしている。
微塵丸は木曽義仲の愛刀であり、膝丸は源義経が箱根権現に奉納した太刀であり、どちらも頼朝に恨みを持っている武将のものだ。頼朝落命の情報の速さを考えると巻狩において頼朝暗殺が実行されたのではないか。五郎時致は御所五郎丸に斬られなければ頼朝暗殺まで迫っていたのだから。
鎌倉に「頼朝落命」の一報が届いたときに、落胆した政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めた範頼は幕府横領の疑いをかけられる。
8月2日。範頼は頼朝に忠誠を誓う起請文を送るが、庶子の範頼が源姓を名乗ったことに頼朝が激怒。範頼家人の当麻太郎が頼朝の寝所の下に潜んでいたところを捕らえられ、17日に伊豆修善寺に幽閉される。
8月18日。結城朝光、梶原景時、仁田忠常らが範頼の館で不審有りとして襲撃して範頼を討ち取っている。
範頼の墓は修禅寺信功院があったところに墓があり、五輪の石塔がひっそりと残っている。正岡子規が「鶺鴒よこの笠叩くことなかれ」と範頼の墓について詠んでいる。
つづく。
こんにちは^^
甲斐善光寺の宝物館には日本最古の頼朝像があるのですが(現在は修復中)、人のよさそうな感じで、とてもとても身内や恩人を殺しまくったサイコパスには見えません。
富士の巻狩でも頼家が鹿を射たことを喜んで政子に報せているくらいなので、ホントにいい人だったのでしょうと思えます。
また、浮気するたびに政子に見つかり恐縮しているところは抜け目のない武将とも思えません。
これだけ頼朝側近が殺されていくのは別の理由がって思われる事件が次回からも起ります。
頼朝暗殺未遂事件があったのですね。
その範頼は、政子を慰めるために、他意はなく善意で言っただけなのか?
それとも、本当に疑わしい行動があったのか??
もし前者だとしたら、源氏は言葉ひとつにも細心の注意が必要で、油断できませんね。
頼朝の所業を思うと、側に仕えていた人は生きた心地がしないような^^;
前回のコメントで、疑問にお答え頂き感謝です。
頼朝サイコパス説ですか…!
確かに、そう思われるくらい身内を粛清しすぎですよね;;
本当のところは頼朝自身にしかわからないのでしょうが、興味深い説です。
次回も楽しみにしてますね(*^^*)