得宗北条はこうして天下を征服した その13
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- 2020/03/13 15:55:05
正治2年(1200)正月20日。御家人66名(千葉常胤・三浦義澄・千葉胤正・三浦義村・畠山重忠・小山朝政・結城朝光・足立遠元・和田義盛・和田常盛・比企能員・所左衛門尉(藤原)朝光・二階堂行光・葛西清重・八田知重・波多野忠綱・大井実久・若狭忠季・渋谷高重・山内首藤経俊・宇都宮頼綱・榛谷重朝・安達盛長入道・佐々木盛綱入道・稲毛三郎重成入道・安達景盛・岡崎義実入道・土屋義清・東重胤・土肥維平・河野通信・曽我祐綱・二宮友平・長江明義・毛呂季綱・天野遠景入道・工藤行光・中原仲業以下)による連判状によって幕府から追放された梶原景時が、一族を率いて上洛しようとした道中、吉川友兼、飯田家義らに襲撃された。狐崎で三郎景茂、六郎景国、七郎景宗、八郎景則、九郎景連が討死。山へ引いた嫡男景季、次男景高も討たれた。景時は自害し、翌日一族33名の首が路上にさらされた。
狐崎で戦った吉川友兼の愛刀「狐ヶ崎」は代々吉川氏に伝えられ、財団法人吉川報效会が所有している。現在は岩国市の吉川史料館で毎年10月11月に公開されている。
吉川友兼は狐崎で討死したものの、子の朝経が播磨国揖保郡福井荘の地頭に任じられている。戦国時代には毛利の両川として毛利家を支えた吉川元春の吉川家は友兼の末裔。
正治3年(1201)正月23日。建仁の乱。梶原景時に庇護されて御家人となっていた城長茂が大番役で在京中の小山朝政邸を襲撃。小山朝政は不在で小山勢と戦ったあとで退いて、頼家追討の宣旨を要求するが受け入れられず。
2月3日、後鳥羽上皇による長茂追討の宣旨が下されて、2月22日に吉野山で鎌倉勢と戦って討ち取られた。のち長茂と行動をともにしていた奥州藤原氏の藤原高衡も誅殺されている。
建仁元年(1201)、城長茂の甥に当たる資盛が越後で反乱を起こす。鎌倉勢は佐々木盛綱を総大将として討伐に向かい、資盛、叔母の板額御前は越後国鳥坂城(現新潟県胎内市奥山荘城館にあった城、別名白鳥城、中条城など)に立て籠もって戦う。1000人足らずの城氏勢だったが帯曲輪に木柵を巡らせ、空堀に逆茂木を立てて、徹底抗戦。弓の名手の板額御前が百発百中の腕で鎌倉勢に多数の死者をだした。しかし、板額御前が負傷して捕らえられると、資盛勢は敗北して鳥坂城は落城する。資盛は逃亡して行方不明となった。板額御前は木曽義仲の愛妾巴御前と並ぶ女丈夫で、二代将軍頼家の前に引きだされた際に、甲斐源氏一族の浅利義遠の申し出により引き取られた。のち甲斐国に移り住み、子孫は武田信玄側近となったとも言われている。
つづく。
こんばんは^^
巴板額といって女丈夫の代表だったみたいですね。
戦では鎧を着込んでいるからよほどの強弓か急所を狙わないと弓は通らないのですが、弓をもって奮闘ってことはそうそうな名手だったのでしょうね。
頼家との謁見のときには御家人が見物に集まったということなので、武家政権もまだ牧歌的な感じだったのかもです。
この時代はどんどん北条の天下へなっていって御家人たちの力が削がれていきます。
ある意味、北条が武家の力をそぐ見本を見せたかもですね。
女丈夫といえば巴御前が有名ですが、板額御前という人物もいたのですか。
捕虜となった際、全く臆することがない姿が、浅利義遠の心を掴んだようですが、
弓の腕前といい、かっこいい女性だったのでしょうね。
この時代はさっぱりわからないので、知らない名前が続々と出てきて面白いです(*^-^)