得宗北条はこうして天下を征服した その14
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- 2020/03/16 20:26:33
建久10年(1199)1月20日。源頼家は左中将となり、同月26日家督を継いで第2代鎌倉殿となる。しかし、わずか3ヵ月後の4月12日には頼家が訴訟を直接裁断することが禁じられて、十三人の合議制が敷かれることとなった。十三人は大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、梶原景時、足立遠元、安達盛長、八田知家、比企能員、北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛で、頼家の権限は制限された。
正治元年(1199)10月には御家人66名の連判状で梶原景時が失脚。翌年には梶原一族が討ち取られる。正治2年(1200)1月23日に三浦義澄が、4月26日に安達盛長が相次いで病死して、1年も経たないうちに合議制は解体された。
建仁2年(1202)7月22日に頼家は従二位に叙せられて、征夷大将軍に宣下される。
建仁3年(1203)5月19日。頼家は武田信光を派遣して阿野全成を謀叛人として捕縛。5月25日に常陸国に配流され、6月23日には八田知家が頼家の命令で全成を殺害する。阿野全成は源義朝の七男で頼朝の異母弟、義経の同母兄で、頼家にとっては叔父にあたる。北条時政の娘の阿波局を妻としていて、阿波局は源実朝の乳母だった。7月26日には全成の三男の頼全が源仲章によって殺害されている。
建仁3年3月頃から頼家は体調不良が続き、7月半ばには病に陥り、8月末には危篤状態となる。9月7日には頼家存命にもかかわらず、「9月1日に頼家が病死して、嫡男の一幡が家督を継いだ」との報告が都にあって、一幡を征夷大将軍に任命するように要請があったと藤原定家は「明月記」に記している。
建仁3年9月2日。比企能員が娘の若狭局を通じて北条時政討つべしと頼家に言上したことを、政子が立ち聞きして時政に報せる。時政は大江広元と相談して、比企能員を討つべく仏事にこと寄せて自宅へ招き、天野遠景、仁田忠常が比企能員を誅殺する。
能員の従者が逃げ帰って能員が討たれたことを報せると、比企一族は一幡の屋敷に立て籠もるが、謀叛と見なした政子が比企一族の討伐を決定する。北条義時を大将として、北条泰時、平賀朝雅、小山朝政、同宗政、同朝光、畠山重忠、榛谷重朝、三浦義村、和田義盛、同常盛、同景長、土肥維平、後藤左衛門尉信康、藤原朝光、尾藤知景、工藤行光、金窪行親、加藤景廉、同景朝、仁田忠常らが襲撃して比企一族を滅ぼした。頼家の嫡男の一幡も死亡する。
同月5日。病状が回復した頼家は時政が嫡男の一幡と比企一族を滅ぼしたことに激昂して、和田義盛と仁田忠常に時政を討つように堀親家を使者として御教書を送るが、和田義盛が御教書を時政に渡したため、時政は堀親家を捕らえて工藤行光に殺させた。
同月6日。比企能員追討の恩賞のために時政の館に呼ばれた仁田忠常が、押し掛けた弟ともども殺害される。
同月7日。政子の命により頼家が出家。
同月15日。千幡(源実朝)に征夷大将軍が宣下される。
同月21日に時政と大江広元の協議によって頼家の鎌倉追放が決まり、29日に修禅寺へ幽閉された。
北条時政、政子、義時恐るべしで、頼家の外戚として権勢を誇った比企一族はたった1日で滅亡してしまっている。
つづく。
おはようございます^^
クーンツの「ウォッチャーズ」は映画「ウォッチャーズ/第3生命体」の原作ですね。
SF作品のサスペンスものはホントに怖かったりしますね^^
徹夜にならずに読めたでしょうか^^
ウォッチャーズって作品を
古本屋でみつけました。
犬がしゃべる内容ですが、とっても
スリルのある内容です。
読み始めて、いまもずっと
読んでいます。
夜までに読めそうにないかもです。
こんばんは^^
政子の大姫と頼家と、愛情の向け方が全く違うのですよね。
頼家は吾妻鏡に書かれているように暗愚だったかもしれませんが、実子ならカバーしてということができるポジションであるにもかかわらず、権力を削いでいくのですよね。
北条氏も同じで源氏を利用してうまく坂東の覇者から全国のトップになったわけですが、源氏の切り捨てが半端ないですからね。
北条家、恐るべしですね~>_<;;
これらの企みに、政子はどこまで関わっているのかな?と不思議だったのですが…
だって政子にしてみたら、頼家は息子だし一幡は孫なわけですよね。
kiriさんの日記を読むと、
「政子が立ち聞きして時政に報せる」とか「政子が比企一族の討伐を決定する」とか、
政子主導で行われている感じが…
骨肉の争いが当たり前の時代だったのかもしれませんが、実子や孫にも容赦なしとは世知辛い。
次回も楽しみにしてます(*^^*)