得宗北条はこうして天下を征服した その15
- カテゴリ:勉強
- 2020/03/18 19:41:35
元久元年7月18日。修禅寺の源頼家を北条氏が襲撃して殺害する。
「吾妻鏡」7月19日条では、「昨日、十八日。左金吾禅閤、年廿三。当国修禅寺において薨じたまふの由、これを申すと云々」と素っ気なく記すだけ。
「愚管抄」によると、頼家が修禅寺前の筥湯に入っているところを北条氏の武士が襲撃。頼家が激しく抵抗するのを、首に紐を巻きつけて、急所を握りつぶして、刺し殺した。とある。
岡本綺堂は修禅寺の宝物殿にある「頼家の面」から発想を得て「修禅寺物語」を書いた。頼家が当代切っての名人の夜叉王に自分の面を彫らせたところ、いつまで経ってもできあがらず、しびれを切らした頼家に娘のかつらが面を渡す。その面には死相が浮かんでいて渡せなかったという教科書にも載っている物語だ。
明治25年、修善寺を訪れた正岡子規は「此の里に悲しきものの二つあり 範頼の墓と頼家の墓と」と詠んで北条氏によって誅殺された範頼と頼家を悼んでいる。
現在、頼家の墓地には北条政子が息子の頼家の冥福を祈り、建立した指月殿がある。伊豆最古の木造建築物で、五間方形(約9メートルの方形)の経堂で釈迦如来座像が本尊としてあり金剛力士像が脇侍であった。指月殿の傍らには頼家の墓があり、「源頼家の墓 正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きく揺れ動く時流と、醜い駆け引きに終始する政争に破れ、在位わずか6年でこの修善寺に流され、元久元年(1204年)祖父北条時政の手で入浴中に暗殺された(享年23歳)。『修禅寺物語』はこうした政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、面作り師夜叉王を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものである。この碑は、元禄16年(1704年)頼家の500周忌にあたって、時の修善寺住職筏山智船和尚が建てた供養塔であり、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔である。 伊豆市」と説明書きがある。
指月殿はこぢんまりとしたお堂で、頼家の墓も死後500年経つまで小さな五輪石塔だけだった。源氏棟梁で鎌倉幕府二代将軍としてはあまりにも質素すぎるよね