得宗北条はこうして天下を征服した その16
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- 2020/03/19 22:05:28
修善寺はもともと北条氏の地元で、高田崇史「神の時空 鎌倉の地龍」によると、日光の中尊寺と同じ、鋳銭司からきているという。貨幣鋳造のことで、修善寺も中尊寺も産鉄地だった。北条氏は産鉄民であり、鍛冶は力の源だった。
範頼、頼家が殺された修禅寺の当たりは桂谷と呼ばれ、高田崇史「QED 鎌倉の闇」では、桂谷はもともと葛谷で、葛はくず=屑=九頭などと同じ土蜘蛛と呼ばれた山の民のこと。戸隠の九頭竜、箱根の九頭竜、白山の九頭竜川など産鉄、製鉄と関わりがあるところが多く、葛谷も鉄が出た。谷は荒れた山間地域のことでその日に食べるものにも困っていたくらいの貧困地域だった。ちなみに裕福な山間は沢といい、金沢は金が出る豊かな山間だった。
指月殿は桂谷に住んでいた北条子飼いで、範頼、頼家暗殺に手を貸した領民たちの生活が成り立つように建てられたものではないかと高田崇史さんは推測している。現代でもほとんど必要のない場所に莫大な予算を使って大きな建物や道路が造られるが、建築工事や維持、管理によって恩恵を受ける人たちが存在するから。指月殿も建てることで桂谷の人々は北条氏から利益を得たのだろう。彼らにとっては将軍の源氏は自分たちには関係のない雲の上の存在で、支配者の北条氏だけがすべてだった。
元久2年(1205)6月22日。畠山重保が由比ヶ浜で三浦義村らに取り囲まれて討死。畠山重忠、重秀ら畠山一族は二俣川の戦いで北条義時の大軍と戦って敗れて自害。元久元年(1204)11月4日、三代将軍実朝の妻の坊門信清の娘を迎えるために上洛した御家人たちの宴で、平賀朝雅と畠山重保との間で言い争いがあり一触即発となる。その場は収まったものの、翌日北条時政と牧の方との子の北条政範が病で急死する。政範の死と平賀朝雅と畠山重保との言い争いをしたとの報告が鎌倉へ届いたのち、朝雅は妻の母の牧の方に重保から悪口を言われたと讒言、牧の方は時政に畠山重忠、重保親子に叛意があると訴えた。北条義時は畠山重忠の忠勤を理由として一度は畠山一族を討つことに反対したが、牧の方の兄の大岡時親に「牧の方は継母だから」などと言われて仕方なく同意する。
同じ秩父氏の稲毛重成に招かれていた畠山重保は由比ヶ浜の騒ぎに駆けつけたところを三浦義村に囲まれて討ち取られ、畠山重忠もわずか150騎ほどで北条義時の大軍と戦って死亡する。
翌23日。畠山重忠の謀叛は無実であったと義時は時政に報告。稲毛重成親子、榛谷重朝親子が畠山重忠を陥れたとして三浦義村らに殺害された。稲毛重成は頼朝暗殺時に亡き妻のために相模川に橋を架けて法要を行なった人物だ。
7月8日。将軍実朝に代わって、北条政子の命で。畠山氏の所領は畠山重忠を討った武士たちに与えられ、20日にも政子の女房たちに遺領が与えられている。閏7月19日、北条時政と牧の方は義時、政子によって鎌倉を追放されて伊豆国北条で隠居となる。平賀朝雅は義時の命で山内首藤通基に誅殺された。
平賀朝雅の弟の小早川景平は戦国時代に毛利の両川として活躍する小早川家の祖で、頼朝を石橋山で助けた土肥実平の嫡男遠平の養子となっている。
義時は畠山重忠を陥れたとして稲毛重成、榛谷重朝、平賀朝雅らは誅殺しているが、父親の時政、継母の牧の方は追放で済ませており、北条時政を出家させることで北条氏に集まる憎悪の鉾先をそらしたとも考えられるよね。
つづく。
こんばんは^^
再来年の大河ドラマはこんな殺戮の繰り返しで大丈夫なの?って感じですけどね。
時政追放のあとも北条氏は権力を握るためにライバルたちを蹴落としているから、実務に長けていたのでしょうね。鎌倉幕府執権の北条氏と、室町幕府の政所執事の伊勢氏と、ともに平家の流れなので、武力よりも政権で権力を維持することが得意なのかもしれませんね。
とはいえ、源氏のように家が滅びるくらいに内部抗争が発展しないのも特徴ですね。
北条氏の謀略の数々、恐ろしいですね。
その首謀者と思われる時政は、義時に追放されてしまいましたが…
まだまだ謀略は続きそうですね>_<;;やっぱり義時も腹黒かったのでしょうか??
再来年の大河ドラマでは、義時が主人公なので、どのように描かれるのか楽しみですね♪
kiriさんの日記で予習ができて助かります^^
次回もよろしくお願いします。