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得宗北条はこうして天下を征服した その17

建暦三年(1213215日。信濃源氏の泉親衡が頼家の三男の千寿丸を鎌倉殿に擁立しようとした陰謀が発覚。泉親衡は捕縛にきた鎌倉勢と戦って混乱に乗じて逐電。事件に関係したとして和田義盛の嫡男の義直、義重、甥の胤長らが捕縛された。

38日。鎌倉へ戻った和田義盛は将軍に一族の赦免を嘆願、長年の勲功が認められて、義直、義重の赦免が決まった。

39日。和田義盛は一族98人を引き連れて甥の胤長の赦免を嘆願するが、大江広元が胤長は謀叛の張本人であるとして、胤長を縄で縛り上げた。

317日。胤長の陸奥国岩瀬郡(現福島県岩瀬郡)への流罪が決まる。21日。胤長の娘が悲しみのあまり病気になって息を引き取った。25日。和田義盛が胤長の没収された屋敷の一族への下げ渡しを願って許されるが、4月2日に義時が泉親衡の乱平定に功績があった金窪行親に下げ渡した。

27日。三代将軍の実朝が義盛へ使者を送り、和田義盛挙兵の噂について問いただすと、義盛は「上(実朝)に恨みはござらん。ただ相州(義時)の傍若無人の仔細を問いたださんがために用意している」と答えた。義盛は和田一族、横山党、波多野氏と結び、本家筋の三浦義村も起請文を書いて義盛に味方すると誓った。

52日。和田義盛は150騎で挙兵。大倉御所、北条義時邸、大江広元邸を襲撃する。起請文まで書いた三浦義村は土壇場で北条方へ寝返って、実朝と御台を鶴岡八幡宮へ逃がし、大倉御所の守りについた。「三浦の犬は友を食らうぞ」と千葉胤綱に言われたという。

大倉御所で和田方は奮戦し、御所に火をかけ、朝比奈義秀の活躍もあって一時は北条朝時を負傷させるなどしたが、幕府方の援軍が増えて、和田一族は由比ヶ浜へと退く。

53日。横山時兼率いる横山党3000余騎と合流し、鎌倉に突撃。北条泰時、時房らと激突する。実朝の御教書によって幕府に味方した幕府方によって、徐々に和田勢は劣勢となり、酉の刻となって義直が討ち取られて、悲嘆した義盛が大泣きしているところを江戸義範らが討ち取った。義重、義信、秀盛らも討ち取られた。朝比奈義秀は安房国へ逃れた。

合戦後、固瀬川に和田一族の首級234が梟された。陸奥国岩瀬郡へ流されていた胤長も59日に処刑された。

北条義時は和田義盛に代わって侍所別当を兼任し、政所別当とあわせて幕府の実権を手にすることとなった。

建保二年(1214)1113日。千寿丸は六波羅襲撃計画が北条方にばれて、一条北辺に潜んでいたところを襲撃されて、自害。享年14

頼朝挙兵以来、大きな役割を果たしてきた和田一族は北条義時の挑発にのって挙兵して滅ぼされた。朝比奈義秀は巴御前を義盛が引き受けての子どもだが、生年月日があわないことから義仲と巴御前の子どもだった可能性がある。朝比奈の姓は安房国朝夷軍からと言われていて、後世子孫が今川氏、武田氏、徳川氏に仕えた。また朝比奈の姓は義仲の朝日将軍からとも言われている。宮城県黒川郡大和町に伝わる「朝比奈三郎伝説」の三郎は義秀と同一人物とされる。

義時は最大のライバルだった和田一族を蹴落として幕府の実権を固めるのに成功している。





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