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得宗北条はこうして天下を征服した その18

建保3(1215)16日。鎌倉幕府初代執権の北条時政死没。三代将軍源実朝を暗殺して平賀朝雅を四代将軍につけようと画策した牧氏事件で、義時、政子との政治的な対立から鎌倉追放となった時致は伊豆国北条で腫瘍のため病死。享年78。源頼朝が奥州平泉討伐の戦勝祈願のために建立した願成就院にあり、二代執権の義時と三代執権の泰時が時政の供養のために堂塔伽藍を増建したという。

建保7127日。鶴岡八幡宮にて三代将軍の源実朝が頼家の子の公暁に暗殺される。八幡宮拝賀の式典の朝、大江広元が理由もなく泣き始め、「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と衣冠束帯の下に簡略の鎧を着けることを勧めたが、文章博士の源仲章が「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と先例がないことを理由に断っている。また、宮内兵衛尉公氏が実朝の髪を梳いたときに、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」という菅原道真が太宰府へ配流されたときに詠んだ「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」の本歌取りとも言える歌を詠んでいる。この歌が辞世となったのだが、和歌に造詣が深く「金槐和歌集」という家集もある実朝が道真の和歌がどういう意味か知らないわけはない。金は鎌倉の鎌の字の偏で、槐は大臣の唐風の読みでこれだけで右大臣実朝和歌集となるくらいの知識があった。死地へ赴く心情だったとも思える。御剣奉持役の北条義時は、実朝が八幡宮の楼門に入ったところで目の前を白い犬が通ったとして体調不良を訴えて太刀持ちを源仲章に代わってもらっている。式典が終わって社前の石段を降りたときに大銀杏の陰から公暁が「親の敵はかく討つぞ」と切り掛かり、実朝を殺害し、返す刀で源仲章を斬り殺した。八幡宮の警護の武士たちは誰も間に合わず、武田信光らが駆けつけたときには公暁は実朝の首を持ち去ったあとだった。八幡宮の警護所は数ヶ月前に撤去されていたという。

公暁は実朝の首を持って備中阿闍梨宅に戻り、乳母夫の三浦義村に「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と使いを出した。三浦義村は「迎えの使者を送る」と偽りの返事を出して、義時に密告。義時は長尾定景を討手として派遣して義村邸宅に向かう公暁を討ち取っている。公暁は享年20。長尾定景の長尾一族は北条氏と三浦氏の争いである宝治合戦でほぼ全滅するが、長尾定景の孫の景忠の血筋が関東、越後で上杉氏と婚姻を繰り返して、のちの上杉謙信へと繋がっていく。

実朝暗殺は、黒幕は北条義時とも三浦義村とも言われるが、義時は白い犬が眼前を通ったときに「イヌ」に暗殺について報され危機を逃れ、義時を殺しそこなった三浦義村が口封じのために公暁を売ったとも言える。

つづく。





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