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得宗北条はこうして天下を征服した その19

承久2(1220)414日。源頼家の四男の禅暁殺害。元久元年(1204)7月に父の頼家が殺害されたのちに、出家して仁和寺に入っていたが、建保71月に源実朝が暗殺されると、公暁に加担したとの疑惑を受けて、建保7年閏25日に、次期将軍東下の要請のために上洛した鎌倉の使者の二階堂行光らとともに京を出発する。12ヵ月後、京の東山付近で誅殺された。ここに頼朝と政子の男子は途絶えることとなる。

承久3(1221)514日。後鳥羽上皇が流鏑馬揃えを口実に、尾張守護小野盛綱(和田合戦で和田義盛に味方した横山党の一族)、近江守護佐々木広綱(頼朝挙兵時の佐々木四兄弟の定綱の長男)、検非違使判官三浦胤義(鎌倉幕府宿老三浦義村の弟)、京都守護大江親広(鎌倉幕府政所別当大江広元嫡男)らを含む1700余騎が集まった。翌15日、招聘を拒んだ京都守護の伊賀光季邸を藤原秀泰、大内惟信率いる800騎兵で襲撃する。伊賀光季はわずかな手勢で奮戦し討死するが鎌倉へ変事を報せる使者を逃がすことに成功する。

同日。後鳥羽上皇は武田氏、小笠原氏、小山氏、宇都宮氏、長沼氏、足利氏、三浦氏及び北条時房に対して北条義時追討の院宣を発する。ここに北条義時は朝敵となった。

519日。新幕府派の西園寺公経の使者、伊賀光季の使者により、上皇挙兵の報が鎌倉に届く。実朝暗殺後に四代将軍藤原頼経の後見となって実権を握っていた北条政子が「故右大将の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義を討って、三代将軍の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」と命じたことで御家人の動揺は収まったとされる。

522日。鎌倉幕府は北条泰時、時房率いる東海道、武田信光、小笠原長清率いる東山道、北条朝時率いる北陸道と三方から京へ攻め上った。65日。東山道軍5万騎は大井戸渡で大内惟信勢を撃破。613日には宇治で上皇軍は幕府軍を迎え撃つが翌15日には佐々木信綱を先陣として宇治川を渡って上皇軍を蹴散らして京へ入った。

後鳥羽上皇は幕府方へ使者を送って「乱は謀臣の企てであった」として義時追討の院宣を取り消し、藤原秀泰、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を出した。藤原秀泰、三浦胤義、山田重忠らは東寺に籠もって奮戦するが、三浦泰村が攻めて三浦胤義は自害、山田重忠は落ち延びた嵯峨般若寺山で自害、藤原秀泰は幕府軍に捕縛された。北条時政の娘婿の河野通信は陸奥国江刺へ配流となった。

北条義時は史上唯一、朝敵として官軍を武力で打ち破った武将となった。

つづく。

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2020/04/16 09:58
>サモワールさん。
おはようございます^^
平安後期から鎌倉にかけて、武士は正々堂々という気風があり、戦でも名乗りをあげたり、矢合わせしたり、ってことができないといっぱしの武士ではない時代でした。
その中で、北条氏がライバルを蹴落とす経緯はまるで藤原氏が政敵を追い落とすように用意周到に追い落としていきますよね。坂東の武士たちはよくいえば素朴で、味方やましてや同族に裏切られたり見捨てられたりするなんて思ったこともなく、北条氏の切り崩しで勢力を失っていった気がします。
比企氏にしても、時政に呼びだされた能員が武器も持たずひとりで乗り込んで殺されてますし。

源義朝の流れでは、頼朝挙兵のときに存命していた兄弟が5人。希義は土佐で討死、範頼は曾我兄弟の騒動ののちに謀叛の疑いをかけられて伊豆へ配流、誅殺、阿野全成は頼家と対立して常陸へ配流、誅殺、義円は墨俣川で討死、義経は藤原基衡に討たれて、孤立してしまっているのは源氏の血なのかって思います。

当時、戦上手ではあったけれども正々堂々ではなかった義仲や義経は、名前がある武士だけではなく、鬼と呼ばれていた人たちなどともつながりがあって、そうとうに恐れられていたはずで、北条氏も出自が伊豆の国北条(修禅寺あたり=地名は鋳銭司から?)で産鉄地ですから彼らの怖さはよく知っていたのでしょうね。だから、義経から排除し、鎌倉党の梶原景時をうまく使って必要がなくなったら追い落としってことをやったのでしょう。

三浦義村があんなに北条氏寄りで立ち回らなかったら和田合戦で鎌倉幕府は終わっていたかもなのですけどね。
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2020/04/15 09:59
訂正。

義経の兄・阿野全成と義円は、配流ではなく出家ですね(^◇^;)
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2020/04/15 09:50
さして有力な勢力を保持していたわけでもなく、頼朝の正室の実家にすぎなかった北条家。
頼朝の乳母一家であり頼家の外戚に近い立場だった比企家を駆逐出来た事がその後の展望を開けましたね。

平安後期以降、有力者の周辺で無視できない存在となってくるのが乳母。
貴人の生涯に渡る有力近臣であり、一家総出で養君に仕えます。
この時代の京では、後鳥羽院の乳母・藤原範子周辺から二人の寵妃が誕生し、それぞれ土御門院・順徳院を儲けています。

因みに仲恭廃位後の京で治天の君となった後高倉院守貞の院宮では、やはり院の乳母だった治部卿局やその娘・中納言局が権勢を持ちましたが、彼女達の夫は平知盛(壇ノ浦で敗死)藤原範茂(承久の乱で刑死)ですので、有力な男家族の支えがなかったのは気の毒でしたね。
もう一人の乳母・宰相局は平頼盛の娘。実家の池大納言家は平家都落ちに加わらなかったのですが、平家滅亡後もあまり振るわなかった家。とは言え彼女の娘・陳子が守貞の妃となり、彼女が生んだ皇子こそが承久の乱後に即位した後堀河天皇だった事を考えるとやっぱり乳母は凄い。陳子は池禅尼(頼朝助命の功労者)の孫であり、一条能保(頼朝の妹婿)の従兄弟にあたるので、後堀河指名はその辺りも考慮されていたのでしょう。

北条と比企との争いは、将軍家の外戚と乳母一家による抗争です。
この時代以降も、北条得宗家や将軍の周辺で勃発する勢力争いには、このパターンがしばしば見られますね。

鎌倉幕府の難しい所は、仰るように御家人の互助協会的(この表現には思わず指鳴らしましたw)な緩い結合な上に、将軍から権力を奪い、権威すらも薄れさせてしまうと、得宗家や将軍の周辺の抗争を止める高次調停者が不在という事態が結構あるんですよね。

河内源氏鎌倉流に関しては、頼朝と義経の間に嫡流争いがあった可能性が指摘されています。
義朝の正室は身分的に頼朝の母だとされていますが早世しており、他に複数の子を儲けた女性は常葉(常盤)のみ。九条女院の女房ではなく雑仕女という低い身分の常葉ですが、或いは頼朝の母が逝去した後は継室であったのでは、と。
常葉が生んだ男子にしても上二人は平治の乱によって配流。頼朝にしても同様。つまり経歴に傷がないのは当時幼年だった義経のみ。こうなると伊勢平氏六波羅流で言えば重盛と宗盛の関係みたいな部分もあったのでは…と。
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2020/04/14 14:49
>サモワールさん
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏は、頼朝が朝廷に近づいていくをうまく引き剥がして関東を独立国家のようにしましたからね。だからこそ、承久の乱では武士たちが損得勘定だけを考えて朝敵だということを気にしなかったのかもしれませんね。
幕府も武士政権ではなくて、どちらかというと互助協会のような感じで、農協とか漁協みたいなところで、権力争いをしていただけではないかと考えてたりもします。といっても、150年近く続いたわけで、北条氏の政治はどんどん洗練されて武家政権のお手本になっていったのでしょうね。
鎌倉時代で不思議でならなかったのは源氏が身内同士で殺し合いをすることで、頼朝の血縁だけでも、義仲、義経、範頼は誅され、頼家の子どもが叔父の実朝を殺しって、ホントに何をやっているのだろうって感じです。
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2020/04/14 08:23
当時の朝廷は、治天の君(本院)後鳥羽院が主導しているとは言え、建前上は幼帝・仲恭をトップに据えた体制。

幼帝や女帝は基本的に政治的責任を問われません。
その為に摂政が居り、院政期以降は治天の君がいる。
仲恭天皇が廃位されたのは、騒動の首謀者である後鳥羽院の孫であり、順徳院の子であるからで、且つ即位大礼を行う前だったからです。

鎌倉幕府はこの騒動を別にすると、基本的に朝廷に対しては距離を置いているというだけで、室町・江戸のように圧迫を加える事はありません。
持明院・大覚寺両統による皇位継承争いが激化して以降は、幕府の対策に対して「朝廷権威を抑え込むためにわざと交代制にした」という見方がなされますが、あれはどちらかと言うと皇統の分裂が顕在化してしまったため、それを秩序立てるシステムが朝廷内に存在しない以上、やむなく関東申次を経て幕府が介入せざるを得なかったに過ぎません。

鎌倉幕府は武家政権勃興期ですから、後代の武家政権、特に江戸時代みたいなイメージで見ていくと色々と不思議に感じますよね。
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2020/04/05 21:45
>ゆりかさん
こんばんは^^
政子の演説があってにしろ代読だったにしろ、鎌倉武士たちはどちらが勝つかを冷静に見極めて勝ちそうな幕府に乗ったというのが事実でしょうね。
その意味では緒戦で油断した官軍のせいで負けたのでしょうね。
この勝利で天皇家が滅亡しなかったのは不思議なのですが、北条家は必要だと思って残したのでしょうね。
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2020/04/04 21:02
こんばんは、kiriさん。

承久の乱といえば、kiriさんの日記に書かれている北条政子の演説が有名ですが、主役は北条義時なんですよね。
史上唯一、朝敵として官軍を武力で打ち破った武将ですか。
再来年の大河ドラマが楽しみになりますね(*^-^)

日記の続きも楽しみにしてます♪




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