得宗北条はこうして天下を征服した その20
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- 2020/04/07 15:52:17
7月戦後処理が行なわれ、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐島へ、順徳上皇は佐渡島へ配流された。乱に反対していた土御門上皇は望んで土佐へ配流。後鳥羽上皇皇子の雅成親王は但馬国、頼仁親王は備前国へ配流。仲恭天皇は廃され、後堀河天皇が即位した。乱の首謀者として、一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉へ送られる途上で処刑された。京方に味方した藤原秀泰は10月14日に京で弟の秀澄とともに斬られた。西行の甥にあたる後藤基清は幕府方についた嫡男の基綱により処刑される。佐々木四兄弟のひとり、経高は北条泰時の降伏勧告を受けて自害する。
貞応3年(1224)6月13日。鎌倉幕府第二代執権北条義時が病死。『吾妻鏡』では衝心脚気のためとあるが、藤原定家の日記「明月記」では後妻の伊賀の方による毒殺、「保暦間記」によると近習に刺し殺されたと異説がある。享年62。
貞応3年(1224)6月から閏7月。義時の後妻の伊賀の方が兄の光宗とともに、義時の死後、実子の政村の第三代執権就任と娘婿の一条実雅の第四代将軍就任を画策した政変が起る。政村の烏帽子親の三浦義村と結ぼうとするが、北条政子が第三代執権に義時の長男の泰時をつけて、三浦義村の動きも封じた。伊賀の方は伊豆国北条へ、伊賀光宗は信濃国筑摩郡麻績御厨へ、一条実雅は越前国へ流罪となった。伊賀の方は4ヵ月後の12月24日に危篤となっておりその後死亡と推察される。光宗は政子の死後に罪を許されて評定衆に復帰している。一条実雅は4年後に越後国で変死している。
嘉禄元年(1225)6月10日。鎌倉幕府政所別当の大江広元死去。享年78。朝廷の下級役人であったが兄の中原親能が頼朝と親しく、義経とともに上洛した際には頼朝の代官として活躍した縁もあって、鎌倉へ下り、公文所の別当となった。守護・地頭の設置の献策、承久の乱で嫡男の親広が官軍についたものの、鎌倉方にあって主戦派となり勝利に導くなど、幕府の中心的な役割を果たした。鎌倉殿の正二位につぐ正四位で、北条義時の従四位下に比べると抜きん出て厚遇されていた。広元が大江姓を名乗るのは建保4年(1216)に陸奥守に任官してのちの閏6月1日からであり、それまでは中原広元と名乗っていた。子孫は毛利元就に連なる安芸毛利氏、御館の乱で上杉景虎について戦った北条高広、景広に繋がる越後北条氏などが有名です。
嘉禄元年(1225)7月11日。北条政子病死。享年69。三代将軍源実朝暗殺後、6年もの間鎌倉殿として鎌倉幕府のトップだった政子は生前に、実家の北条氏が力を保つべく暗躍して数々のライバルを追い落として北条氏の実権を確立した。
実子とされる三代将軍の実朝には「もの言はぬ四方の獣すらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母を尋ぬる 大海の磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも」と叫びとも言える和歌を詠んでいますが、読み方によっては「獣ですら親が子どもを思う心はすばらしいのに、私の母の政子は」とか「親のない子が母を尋ねるのはまるで私のようだ」とも取れます。
実朝は公暁に首を斬られて暗殺されましたが、胴は寿福寺(神奈川県鎌倉市扇ヶ谷)に首は大聖山金剛寺(神奈川県秦野市)に葬られており、800年以上も離れたまま。
頼家を謀殺したあとに供養のために建てた指月殿の質素さといい、子どもに対する冷たさは際だっており、実子ではないのではとの疑惑がある。
つづく。
こんにちは^^
小学生の頃に、頼家や実朝について学校の先生に聞いてひどく叱られた記憶があります。
教科書に載っている事実だから仕方がないだろうって。
それよりも不思議だったのは、実子のはずの頼家や実朝を政子が殺しても誰も不思議に思わなかったことで、大学でディスカッションで同じことを考えていた友人に会えてほっとしたこともあります^^
教養がないので、元の和歌だけだと全然わかりませんでしたが…
源実朝の和歌には、そんな意味も隠されていたのですか。切ないですね~;;
政子の冷徹さが怖い。
昔は御家のためなら実子だろうが死に追いやる時代でしたが、なるほど、実子ではないとしたらさらに納得ですね。
嫉妬深い政子ですから、側室との間に出来た子だったのなら…容赦なさそうです(滝汗)
続き、楽しみにしております(*^^*)