得宗北条はこうして天下を征服した その22
- カテゴリ:日記
- 2020/05/12 15:48:42
宝治元年(1247)6月5日。安達泰盛を先陣として、安達勢が三浦泰村の三浦舘を襲撃する。三浦泰村は三浦舘に立て籠もり、弟の光村は80騎を率いて栄福寺に陣を構えて鎌倉と北条得宗家の本拠地山内荘とを分断する。第五代執権北条時頼は三浦泰村との和平を講じていたが安達勢が時頼の腹心の平盛綱を出し抜いて三浦舘を襲撃したため、乱に巻き込まれるかたちで弟の時定を総大将として三浦泰村討伐を命じた。昼過ぎに北条勢が三浦舘に火をかけて三浦泰村を燻り出すと、三浦泰村は栄福寺での合流を進める光村の誘いを断り、右大将家(頼朝)法華堂で死ぬべしと一族500余人と集まって語り合ったのちに自害して三浦一族は滅亡する。三浦氏の娘婿の毛利季光は息子4人らとともに自害するが、越後国にあった四男の毛利経光は生き残り安芸毛利氏となって続いていく。
宝治元年6月6日。三浦氏の娘婿の千葉秀胤への追討命令が出される。翌7日に、千葉氏一族の大須賀胤氏、東胤行らが千葉秀胤の館を襲撃し、秀胤は屋敷に火を放って息子4人を含む一族163人とともに自害する。
鎌倉幕府成立初期から有力御家人として中枢にあって、序列も北条氏に次いで二位だった三浦氏が滅亡したことで、北条氏は合議制の執権政治から専制執権政治へと地盤を固めていく。
おしまい。