能力主義は不公平だろうか?
- カテゴリ:仕事
- 2020/06/11 22:51:44
アメリカでは、履歴書に記載を求められるのは3つ。学歴、資格、職歴。
日本では20年以上も前に、履歴書に学校名を書くのは学歴差別だとして問題になった。一般企業の就職試験で、東大卒の学生と1つの席を争うのはノーチャンスのように思える。だから、東大卒というところを隠してテストも面接も評価してほしい。これが日本の考え方で、ほとんどの企業は学歴を求めない。ことになっている。
しかし、学歴は個人が努力して到達できるステータスだ。東大や京大といったランキング上位校は努力しなければ入れない。とはいえ、日本の大学は教科書で習ったことの基礎と応用からしか問題を作れないのだから、絶対に変えられない人種や、個人の努力だけでは変えることが難しい国籍や性別で差別されるよりはましともいえる。
資格も難しい資格を持っているほうが報酬が高い。これも個人が努力すれば届くこと。
職歴は自分で選んで働いてきた結果だ。アメリカではキャリアアップは当たり前なので職歴は、何を目指しているかの記録となる。
つまり、自分が努力して積み上げてきたことをショールームに並べて、自分を売り込んでいるのだ。
「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」橘玲著によると。
能力主義の話をすると、どんなに「努力しても」できない人たちがいて、その人たちにも「生きる権利」がある。能力が高い人たちだけが利益を得るのは不公平だと主張する人が出てくる。
道徳的にはすべての人に「生きる権利」があり、すべての人が働いてお金を得ることができる社会であるべきなのだけど。
1ヵ月に10台の車を売るあなたと、1台しか売れない私とでは営業能力では10倍の差があるけれど、能力で差別することは道徳的に悪だから、どちらも同じ給料にするとなったときに、あなたは納得するだろうか。
完全に平等な会社では、確実にあなたの売上は落ちていき、私の売上も上がらない。会社は利益を出せなくなって潰れてしまう。
努力によって個人の能力を高めていけるのなら、学校やセミナーで能力を高めて仕事に生かせばよい。働くことは、自分が持っている労働力を会社に投資してリターンをもらうことなので、努力して能力を高めたことで給料が高くなることにほとんどの人たちが納得する。
能力によって評価される世界がすぐそばまでやって来ているのだから、能力を高めるために努力すべきなのだけどね。
こんにちは^^
能力にはいろんな方向性があって、今の世の中はスポーツとか芸能とか音楽とかそういうところで才能があると圧倒的に稼げるけれど、それはホントに一握りで、ほとんどの人たちは週末に趣味で楽しんでってなってしまいます。
言語的知能とか論理的知能の能力が高いと、会社でうまく仕事を回せるから、出世してとこちらのほうが安定して稼げますね。世界の人口の4割くらいはこの部分に入ると言われています。
できることは簡単に伸ばせるし、できないことは何時間かけても分からないしってことで、教育の意味すらないのかもって思うレベルなのですが、それも因果律だったら怖いことですね。
自分は今回かなり悪い事しまくってきたので、次回の人にちょっと申し訳ないですが・・・生きてる間はまだ挽回できる?・・・かな?#^^)b
でも能力以上の事をするのは無理!w 人にはそれぞれ得手不得手もありますからね。
なので自分は平凡な人生を送っています。(^^;
ま、平凡でも毎日ニコタできるので不満はそれほどありません。www
こんにちは^^コメントありがとうございます。
アメリカの認知心理学者で教育学の大家であるハワード・ガードナーは多重知能という、みんないろんないいところを持っているという理論を考えています。
言語的知能、論理数学的知能、音楽的知能、身体能力的知能、空間的知能、博物的知能、対人的知能、内省的知能、実存的知能で、人はそれぞれ得意なことがあっていくつかの高い能力を組み合わせたりして能力となっているみたいです。
言語的知能と論理数学的知能が高ければ、問題を論理的に解決して人に伝えることが上手なので、弁護士などに向いているとか、そういうことですね。
評価ってかなりむずかしくて、完全な客観性で評価できるならその方法を導入できればよいのですけどね。
実は苦手なことを努力してもそんなに伸びなくて、ほとんどの人が落ちこぼれるらしいです><
一言に『能力』と言っても、何をもって『能力が高い』と定義するのかが難しいですね。
『能力』による『成果』がはっきりと数字になって現れるとは限りませんし、時代とともに評価される『能力』も変化していきますし、何よりも・・・、人は自分の好きな人を評価し、嫌いな人を評価しない傾向にあるので、どんなに能力が高くても評価されない人もいるという現実があります・・^^;
高い能力に加えて、環境の変化に対応できる柔軟性と厳しい人間関係を切り抜ける図太さも欲しいところです。私は凡人なので、かなり努力が必要かも・・・・。
こんばんは^^コメントありがとうございますm(__)m
今回のコロナウイルスのパンデミックにより、世界の労働環境は大きく変わると考えています。世界中の経営側の人たちは、労働者が会社に来なくても会社としての活動が成り立つことを認識してしまったため、時間はある程度かかるでしょうが通勤という作業が徐々になくなっていくはずです。会社の経費で社員の交通費負担は大きいですから減額できるならするでしょう。そうなると電車やバスなど公共交通機関の仕事が減少し、ドミノ倒しのようにいろんなところへ影響が出るでしょう。
「生きる価値」「生きる権利」は精神科医の香山リカさんが著書『勝間さん、努力で幸せになれますか』の中で「努力もできず、向上できなくても、人間は生まれただけで生きる価値や権利がある」と能力主義を非人間的な制度として批判しているところから使われています。
勝間和代さんが自己啓発で能力を高めるべきと主張していることへの批判なのですが、実は勝間さんは能力主義が正しいと言っているわけではなく、今の世の中は能力主義になっているのだから、報酬を得るためには能力を伸ばすべきだと技術論を述べているに過ぎなくてという前提があります。
勝間さんも橘さんも、換金できる能力だからといって苦手なことをがんばって高めようとは主張していないのですが、なぜか頑張ればみんな同じように成長できると誤解されています。
ひとつはれんげさんがおっしゃっている「この言葉が耳障り」という主張があって、「文法的に使い方が間違っておらず」「一般的に使用されていて問題はなく」「聞いてほとんどの人が理解する」言葉でもそう言われると言い換えることになって、ニュアンスが変わって伝わることになってしまいます。
もうひとつは、同じ議題でも同じレベルで認識していなくて、わかっているよねってところで理解度が違うために平行線のままってことがあります。
橘さんは、能力主義を好きなものを続けることとして、野球の得意なジャイアン(ドラえもんの)がプロ野球選手になれなくても近所の小学生の野球コーチになることで、ある程度の幸福になる未来がつかめるのではないかという話をしています。野球のコーチでは食べられないかもしれませんが、好きを続けることで「残酷な世界」で生き延びる方法をつかんだと。
能力主義の世の中は、綻び始めているのではありませんか?
経済社会の中で評価されるために努力し続けることに、疑問を感じ始めている人たちは少なくないと思います。
私自身、パニック障害を持病にもっていますし、うつ病をはじめとする精神障害者側の世界にも触れる機会があり、関心を持っています。
その著者の方の本は読んだことがありませんが、、「生きる権利」などという言い方は、とても耳障りですし、賃金に換算できる能力を持つ者だけが評価され(その為にどれほどの努力をしたのだとしても)、それ以外の能力・多様性をないがしろにするような社会はどうなのでしょう。
働くことの意味も、人生の目的も、度重なる災害や今回のコロナ禍で どんどん変化していくのではないでしょうか。
努力家で月に車を10台売る人が相応の報酬を受け、頑張っても1台しか売れない人がそれなりの報酬なのは、公平だと思います。
ただ、努力して10台売ることに何の魅力も感じない人が出てきているし、もっと別の生き方、価値観を持つ人達が増えてゆくのではないでしょうか。
脱線してすみません、、生活弱者と呼ばれる人々の身近にいるものとして、たぶん、過剰に反応しているのだと思います。
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
著者の橘玲さんも、あらゆる評価を否定するなら、人を評価する必要のない共産主義に行き着くしかないけれど、そうなるとグロテスクな収容所国家となってしまうことは歴史上の事実と書いています。
橘玲さんは、自己啓発について経済評論家の勝間和代さんと精神科医の香山リカさんがかみ合わない議論をしていることから着想を得て、「残酷な世界」で自己啓発は正しいけれど間違っているという理論でそこから抜け出す方法を模索して書かれたそうです。
MITの講義を3ヵ月でも聴けるのはすごいですね^^
私は朝ドラで応援歌(こんぺきのそら)を作ってもらった学校で文研までが正式な学歴ですが、私の時代はかなり鷹揚だったみたいで、東大の講義にも京大の講義にも混ぜてもらったことがあります。
卒業後に行ったヨーロッパでの放浪で、いろんな人と出会って混ぜてもらったときに、学問は教わるものではなくて、参加するものってやっと気づきました。日本の学問は東大でも教わることが前提だったなあって。
私も出版社をやめてやりたいことをやっていますが、東北の片隅で古文書を読んでいるのも能力にあったものだと思っています^^能力にあっているのは公平ですよね^^
わたしは、普段、学歴の話はしませんが、実は3か月ほどMITにいました。
そこで感じた「学歴」「大学」ということでは、
「あ、東大ってバカの行くとこなんだ~」という結論です。
それで、MITに行ってても、Hawaiiに留学していても、
日本国内でいろんな分野の学業を修めても・・・
とどのつまり、今のわたしはキャンプ場のおばはんです。
これもまた能力主義の結果だと思うのです。
ある意味、公平です♪