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井上靖「氷壁」感想ネタバレあり・3

井上靖「氷壁」感想ネタバレあり、考察。


山岳小説に興味を持つ人は、「なぜ人は山に登るのか」という疑問の答えを作品に探すだろう。
登山は危険だ。まして冬山なら、死のリスクは高まる。どんな登山家でも、冬の山で遭難死している。
氷壁には、井上靖流の答えが、魚津の死後、常盤の演説を通して述べられている。
「山を征服しに、あるいは自分という人間の何ものかを験(ため)すために、一人の登山家として山へ行ったのだ」(作中より引用)

登山家が山を登る理由のひとつとして、このセリフは登山をしない我々にも納得できるものがある。
なぜ危険を冒してまで「それ」をするのか。登山に限らず、何事にも常盤の理論はあてはまる。
しかし、常盤のセリフは魚津の気持ちを代弁したものではない。
魚津がもし、美那子やかおると出会わなかったら、魚津は落石に巻き込まれることはなかった、読み手はそう思うのではないか。

ダーク・ダックスの「山男の歌」に、娘さん 山男にゃ惚れるなよ、山男よく聞けよ 娘さんにゃ惚れるなよ、という歌詞がある。
これは登山家と女性が、いかに相いれない存在であるかよく表していると思う。
それだけ山は危険な場所であり、登山に命を懸ける男が女性に心惑わされ、登山中判断力を誤りかねない事態に陥らないよう警告しているともいえる。

小坂の死は完全な事故だったが、魚津は、美那子とかおるが死の原因だった。
小説の序盤で、魚津は常盤に、自分は絶対にリスクを冒さないと話していた。それが、下山のタイミングを二人の女性への想念のために誤ってしまった。

なぜ、魚津は下山を美那子と重ね合わせたのか。それは、魚津が登山家であるからだ。もしくは、その道のプロであろうとする信念のためである。
何かを極めようとする人間にとって、生活というのはわずらわしいものである。
人間関係ですら邪魔になる。
小説家で生活したいと思う人が、アルバイトをしたら安心してしまって作品を書かなくなる、あるいは書けなくなると自分でわかっているから、あえて苦しい生活をし続けるものだ、と例えたら、魚津の気持ちが少し理解できるだろうか。

魚津が美那子を拒んだのは、まず、人妻を恋することが人道にもとるものだという信念があるからだ。
美那子は魚津に気がありながら、自分から夫に離婚を切り出そうとはしなかった。魚津が誘いをかけてきて、魚津が自分と結婚する意志があると確認できたとしても、夫に隠してずるずると関係を続けていくだろう。そういう女性なのである。

魚津を語る前に、まず美那子について書かなければならない。
美那子は、例えるなら花である。美しいが、何も行動を起こさず、ただ状況という風に吹かれているだけだ。現状に不満を持ち、夫の世話係としてしか家庭に存在価値がない。
30代で教之助に嫁いだというのは、当時の生まれにしては遅い結婚といえる。初婚ではないかもしれないし、おくて過ぎてえり好みし過ぎたのかもしれない。とにかく、彼女の人生に積極性は見えない。教之助との結婚も、相手が裕福で性格的に特に欠陥がないという安全パイで承諾したことが透けて見える。

美那子の生き方を否定はできない。男女ともに、結婚して一人前という時代だった。結婚したら、そう簡単に別れる選択肢もない時代でもあった。
だが、好きになった相手に猛烈アタックする小坂かおるという存在は、美那子と大変対照的である。
強引ではあるが、一応は魚津の気持ちも尊重していたかおるに対し、相手の出方ばかりうかがって、ひたすら棚からぼたもちを狙う美那子の消極さは卑怯に見えるし、全く好感は持てなかった。
美那子は夫の前では良い妻としてふるまうが、女として見てもらえないはけ口を小坂に求め、やらかして後悔し、今度は魚津に女として見てもらおうとしていた。
趣味もなく、ボランティア活動もせず、仕事も持たない。社会の接点が買い物しかない主婦である。
正直いって、見た目だけで中身がない、平凡でからっぽな女性である。どうして小坂や魚津は彼女を好きになったのかといぶかしんだ。

小坂は、美那子が夫に情熱を持っていないと勘づいていた。それを理由に、自分と一緒になるよう迫った。美那子は夫に恋心を持たないが、別れる気もないのである。
しかし、魚津が自分を引っ張ってくれるなら、別れてもいいと少し思っていた。
魚津が美那子を好きだという事実を確認できても、強引に自分から「さらってくれ」と言わなかった。ただ魚津の言葉にうれしがり、満足していた。どこまでも夢見る乙女なのである。
何もしていないから、現状も変わらず、魚津が死んだあと、一生教之助に添い遂げることを漫然と自覚しながら雑踏に消える。この先、何の喜びもない人生と分かっていながら、甘んじてそこに埋まっていくのである。
読者は、彼女のもどかしさに同情を覚えるも、悲しみは抱かないだろう。少なくとも、現代の感性を持つ人なら、当然の結果として受け止めると思う。
何もしないなら、何も変わらない。当たり前のことだからだ。

話を魚津に戻そう。
なぜ、魚津はこの、空虚な女性ーー美那子を好きになったのか。
魚津より付き合いが長い小坂は、美那子の空虚さを愛したのかもしれない。自分なら、美那子が正直に自分の人生を送らせてやれると思ったのかもしれない。
魚津に関しては、美那子の内面性に惹かれた描写は、特にないのである。少なくとも私には読み取れなかった。

ではなぜ、そこまで魚津の心を捉えたのか。
私見としては、美那子は魚津にとって、愛玩する存在、つまりアイドルであったということだ。それ以上でもそれ以下でもなかったと思う。
魚津も小坂と同じように、山の景色ーー氷壁を美那子に見せたいと思った。
なぜ、氷壁だったのだろうか。景色ならほかにも良い場所はある。なぜ、美しくも険しい氷壁だったのか。

話を少しそらすが、私は、愛犬を愛している。景色のいい場所に連れていって、同じ景色とその感動を犬と共有したいと思っている。
しかし犬は、景色に感動する感性を持っていない。いくら美しいと思う場所に一緒に行っても、犬は私と同じように感動しないだろう。

魚津と美那子も、それに似ている。
魚津は登山家として、氷壁を登はんする難しさと、登り切った達成感を知っている。氷壁自体の美しさと、それに挑もうとする思いを、美那子と共有したいと思っていたのである。
山に美那子を連れていくことは実質不可能とわかっていてもだ。
つまりは、魚津は美那子に登山家としての自分を理解してもらいたかったのである。それは、小坂も同じだった。
だが、美那子に魚津を理解することはできない。美那子は魚津に、夫にない若さと頼もしさに惹かれていて、登山家としては見ていなかった。一時でも自分をときめかせる男としての認識しかなかった。
私の犬が、永久に私と同じ感性や感動を抱かないように、美那子もまた、魚津と一線を画して、違う方向で魚津を好きでいることしかできない。
だが、魚津が美那子を諦めようとしたのは、その点ではない。単に、美那子が人妻だったから諦めたのである。
もし美那子が人妻をやめていたら、死んだ小坂への後ろめたさはあれど、美那子を自分のものにしただろう描写があった。

4へ続く











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