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井上靖「氷壁」感想ネタバレあり・4

井上靖「氷壁」感想ネタバレあり・3からの続き


しかし、美那子への思いを絶った直後にかおると会い、気持ちが変わっていく。
かおるが見せた、魚津が美那子に未練があるなら諦めると言った潔さに、魚津はかおるを女性としてではなく、死んだ小坂に代わる「バディ(相棒)」を見出すのだ。

もちろん、結婚するからには、夫婦生活もしなければならない。かおるを女性として見る努力として、魚津はかおるにキスしてみせる。ほら、自分はかおるにキスできるんだ、だから大丈夫…という魚津の様子に、かおるも「無理してないか」と疑っていた。
かおるなら美那子より体力もあるし、共に山に登れるバディになりうるという希望と、女性として愛さなければという真面目な性格が、キスという努力義務をさせたのだろう。しかし欲していた魚津が手元に戻ってきて、それでもいいと言うかおるは打算的に見える。
これに限ったことではないが、氷壁の登場人物はみんな、好感度が高いキャラではない。はっきりいって全員、嫌になるならどこまでも嫌いになれるキャラだ。だが人間とはそういうものだろう。完璧な人間はいない。

かおるを好きになると決めたが、これが美那子だったらという思いを振り切るために、魚津は、あえて危険なルートで穂高に登る。
なぜ思いを振り切るのに登山だったのか。それは、魚津が登山家だからだ。
女性より、山が人生の全てなのである。魚津は、会社に給料前借りしても山に登る男なのである。貯金はゼロだ。魚津の金欠ぶりを知る読者は、美那子、かおるどちらとくっついても金銭問題で関係が行き詰まり、双方の人生がダメになることは見えていた。
かおると結婚しても、かおるが苦労して稼いだ金では生活が苦しく、借金地獄。
美那子とくっついたとしても、夫と離縁された美那子に生活能力はなく、金がなくて山に登れなくなった魚津は人間的にもダメになるだろうことは想像に難くない。
読者には、魚津が登山家である以上、幸せな結婚生活が不可能だと予感している。
そして、その予感は、魚津が遭難死するという結末で当たってしまうのである。

魚津が下山する時に美那子を思い浮かべてしまった理由。それは、美那子を選ぶと登山家でいられなくなるということだった。美那子の肉体に溺れるだけでなく、生涯、山に関する感性を共にできないだろう予感、それに甘んじて山を捨てるということーー自分の人生の死、であったからだ。

危険とわかっていて、落石の中登山を続行した理由。かおるが見守っている気がした、先にかおるが待っている気がした、というのが、作中の描写である。
かおるを女性として愛しているから急いだ、というよりも、その時の魚津にとって、かおるは登山を続けるための象徴(シンボル)になっていた。
外見でしか惹かれていない、本人の内面を知らず、知ろうともせず、ただ憧れてそばに置きたいと思っていた美那子は、魚津にとってセックスアピールとしてのアイドルである。

対して、この時点でのかおるは、性欲や肉体に反する精神的な象徴となっている。魚津が生きる指針としている登山は、魂そのものなのだ。
かおる自身は、魚津にそこまでの神聖を見てはいない。頼もしい将来の夫として、初デート登山にルンルン気分で向かっている。荷物には、登山にふさわしくないワンピースと靴も入れている。

その時のかおるの実態はさておき、死に直面した魚津は、精神か肉欲かの二択を迫られた修行僧を思わせた。結果、魚津は精神を選んだ。
登山家のみならず、山は信仰の対象ともなっている。神聖なる山頂を目指し続けた魚津は、彼の望み通り、登山家として死んだ。精神が肉欲に勝利した結末ともいえる。

魚津の死に、美那子は、絶望しながらも老いた夫と俗世に埋没することを選んだ。恋する女としての人生を捨てたのだ。
かおるもまた、将来別の男性と結婚するような心境にはならないものと思われる。
魚津が修行僧としての生を終えたのなら、この二人の女性も、出家して性を捨てたといえなくもない。

読み終わった直後は、美那子ざまあという気持ちだったが、奥さんを大事にする気もない教之助も腹立たしかったので、同情もした。
かおるは、魚津の部屋に上がり込むなど押し掛け女房っぷりが嫌で、思い込みの激しさも空恐ろしかった。魚津の死に取り乱すでもなく、むしろ希望に満ちた感情表現は狂気を感じさせたほどである。

作者がかおるに負わせたかった役割は、わからないでもない。私も自作小説で、愛する人が死んでも泣かなかった女の子を描いたことがある。
どういう気持ちで書いたかというと、その女の子にとって愛する人は心に生きているので悲しくはない、というものだった。作者もたぶん、似たような気持で書いたのではないだろうか。同時に、男女の恋愛という俗っぽいものから、山で命を落とした者への、尊敬があのようなかおるの描写になったのだと思う。
恋や愛を、肉体より精神性を重んじた崇高さ、プラトニックラブの究極として表したのが、魚津とかおるの関係だったのだろう。肉体を象徴とする美那子は、精神性の前に敗北したのである。

以上が「氷壁」の考察である。
作品自体は、面白いか面白くないかというと、私自身はどちらでもなかった。
ただ、大家とあって、途中で飛ばすことなく読める筆力はさすがで、こうして長文の感想を書きたくなるくらいの作品ということは、良作といえるのかもしれない。
また、女性への煩悩に苦しむ登山家というテーマは、夢枕獏の「神々の嶺」にも影響を与えたに違いなく、その点でも興味深い作品だったといえる。





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