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芭蕉が愛した木曽義仲 その1 

北陸宮を擁護し、倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平維盛の北陸追討軍を破った勢いのまま入京し、朝日の将軍となりながらも人心を失い、わずか半年ほどで最期を迎えた木曽義仲。松尾芭蕉が遺言で「偖(サテ)からは木曾塚に送るべし。爰(ここ)は東西のちまた(巷)、さゞ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所也。懐しき友達のたづねよらんも便(たより)わづらはしからじ」と義仲寺の義仲墓所の隣に葬られている。平家物語では田舎者扱いされた義仲を芭蕉はなぜこんなにも慕っていたのだろう。

木曽義仲は幼名を駒王丸といい、久寿元年(1154)、源義賢の次男として産まれた。義賢は源為朝の次男で、源義朝は異母兄弟、後に征夷大将軍となって鎌倉幕府を開く源頼朝は甥に当たる。義賢は東宮体仁親王(近衛天皇)の帯刀の長となり、無官のままの長男義朝を超えて河内源氏嫡流となるが、いろいろと問題があって廃嫡され、父為義の命により義朝を抑えるべく関東へ下った。武蔵国の秩父重隆と結んで娘を娶り、武蔵国大蔵(埼玉県比企郡嵐山町)に大蔵館を構えた。義仲は大蔵館で遊女との子として生まれたと伝えられている。

鎌倉亀ヶ谷を拠点にした源義朝は相模国から勢力を北へ伸ばし、義朝から地盤を引き継いだ長男義平が、久寿2年(1155年)816日、大蔵館を襲撃して源義賢、秩父重隆を討ち取った(大蔵合戦)。当時2歳の駒王丸は義平によって殺害命令が出ていたが、畠山重能、斎藤実盛の計らいで乳母父の中原兼遠に抱かれて信濃国木曽へと落ち延びた。京にいた異母兄の源仲家は摂津源氏嫡流の源頼政に保護されている。

中原兼遠は安寧天皇の皇別である十市氏の流れで、信濃国木曽を地盤とした豪族で、諏訪大社下社神官の金刺盛澄とも関係があった。義仲は中原兼遠の庇護の元、兼遠の子どもの樋口兼光、今井兼平、巴御前らと共に育った。

続く

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2021/07/05 16:28
>ありおりはべりさん
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
日本の天皇家が世界の王家とまったく違うところは、直属の軍隊を持っていないってことなんです。神武東征はファンタジーですが、その頃でさえ戦争は外注だったのですよね。
天皇家は平氏のコントロールが効かないから、源氏がやってきて平氏を追い払ってくれればいいのに、都に居座ったから追いだし作戦なのでしょうね。源平のときも足利のときも天皇家はそんな感じです。
大手メディアは真相よりも社のメンツなので、協力して掘り下げてもできないし、自分で考えてもできないですね。
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2021/07/02 16:00
こんばんはkiriさん 

木曽義仲を見ていると中央政権というか権力中枢の恐ろしさを感じます。

たぶん 自分が九州の人間だからでしょうが 足利直冬にしてもなどと思いますが
まだ武家の習いなのでマシな方と思うぐらいですね

公家というかあの昔の天皇家の在り方は

歴史の変遷を時代ごとに学ぶととてもキレイごとでもなく 松尾芭蕉のように俳人に慕われた
木曽義仲にしても旭将軍でしたかね

巴御前はその名をあまり良くないのではと思ったとか聞きますが

時代考証の事は分かりませんが 京に招き入れ 武力を使い 勝手をしたと咎め
また誰かを招き入れ 争わせ 昔の天皇家はそんなことばかり

やっていたので人心が離れ幕府が必要になる始末

今のご時世とは全く違うので 権力というのはいかに恐ろしいかですね
法律は権力を縛るものと思っているのが自分の考え方ですが

そういえば小池都知事 最近、退院されて 自宅でテレワークの様子 もちろん誰かしらついているでしょうが?物凄く掠れた声

10数年前なら鬼のかく乱で済んだ話ですがなかなか高齢ですし 何だか自分が年を取ったのを
感じ取ってしまいます。

やはり選挙で選んだ人 ここで副知事に嚙みついていつから復帰ですかとか言っている
中央のジャーナリズムを見ていると大したことないなとか思ったりします。

あれが烏合の衆です。

いくらなんでもやり過ぎです。

そんなことを思ったりしています。

では~




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