芭蕉が愛した木曽義仲 その2
- カテゴリ:勉強
- 2021/07/02 16:44:11
治承4年(1180年)4月9日、以仁王は源頼政と謀って、全国の源氏及び大寺社に平氏追討の令旨を下した。令旨は源行家(源為義の十男)が山伏に身をやつして使者となり、諸国を回った。
治承4年(1180年)9月7日、平氏に与する信濃国豪族の笠原平五頼直が木曽義仲討伐のため木曽へ侵攻。源氏方の村山七郎義直と栗田寺の別当大法師範覚が信濃国市原(長野県長野市若里)で迎え撃った。合戦が長引き日暮れて、村山義直は弓矢が尽きてしまい、義仲に援軍要請の飛脚を送る。義仲が大軍を率いて駆けつけて、笠原頼直は越後の城四郎助茂の陣へ加わるべく越後へ向かった。(市原合戦)
治承5年(1181年)6月、平氏から木曽義仲追討の命を受けた越後の城四郎助茂が1万騎の兵を率いて信濃へ侵攻して、川中島平南部の横田城に布陣する。一方義仲は、木曽衆、佐久衆、甲斐衆ら3000騎の兵を集めて北上、横田河原でぶつかった(横田河原の戦い)。信濃源氏の井上光盛の「平氏の赤旗を掲げて渡河して城本軍に近づき、直前で赤旗を捨てて白旗にする」という奇策で、城軍はパニックとなり9000騎余が討たれたり逃げたりして壊滅。城助茂は300騎で越後へ落ち延びるが離反が相次ぎ、会津へ逃れるが奥州藤原氏の攻撃を受けて城氏は没落する。
義仲は越後から北陸道を進み、寿永元年(1182年)8月、北陸へ逃れていた以仁王の遺児である北陸宮を越中国の豪族宮崎太郎の館に招き、元服式を行なった。
続く
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
木曽馬は本州では唯一の日本在来種ですね。新田義貞も木曽馬を使っていたとか。
今日は旧暦5月28日で建久4年5月28日に曾我兄弟が工藤祐経を討った日で、曾我祐成は成敗されての命日って林先生が説明してました。
あのあたりは今でも馬の牧場があって木曽駒がいるらしい。
近いようでもアルプス越えしないといけないものですから、よく知らない(^▽^;)
続きを楽しみにしてますー♪
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
源氏はなぜか理由はわからないけれど身内同士で争うのですよね。当時の源氏では摂津源氏嫡流の源頼政と木曽源氏の源義仲だけが内部抗争をしていないのですが、あとは血で血を洗う殺し合いですね。後の世でも足利氏も武田氏もひどいし。
木曽義仲の戦は当時の正々堂々とは違うのですが、兵法には叶っているので戦上手ですね。戦国時代ならもっと評価されたかも。
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
木曽義仲は教科書では誤解されている武将なので、きちんと書いておこうと思ったのですが、犬が膿皮症で炎症発症したりでバタバタしてます。おちついたら続きを書きますね。
昔から源氏は中でも争い平氏とも争い 権力闘争なのか土地の絡みなのか 争いというか
いくさなさいますか?的な発想な何故なのでしょうね
一万騎を三千の兵、騎馬で破ったのは凄いです。赤旗から白旗 敵か味方か?と混乱したのでしょうね
木曽義仲が入京する前にいろんな合戦に参加していたことは分かりますが
詳しく知っているのは皆無とは言いいませんがレアなケースではと思います。
でも勉強になります。ありがとうございます。この時代の木曽義仲のことはあまり知られていないので
おもしろいです。
では~