芭蕉が愛した木曽義仲 その3
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- 2021/07/06 17:11:04
寿永2年(1183年)2月23日、下野国野木宮(栃木県下都賀郡野木町)で志田義広(源為義三男、義賢の同母弟)と源頼朝方の小山朝政との戦があり、志田義広は敗れて木曽義仲の群に加わった。
以仁王の令旨を持って全国を行脚した源行家は、治承5年(1180年)3月10日の墨俣川の戦いで、長男光家、次男行頼、甥の禅僧義円らと平維盛、平重衡軍と戦い、義円は討ち取られ、行頼は捕らえられ、690余人もの戦死者を出す大敗。その後相模国松田(神奈川県足柄上郡松田町)に棲みつくが、頼朝から所領安堵がもらえず、義仲軍に合流する。
寿永2年(1183年)3月。志田義広、源行家と合流したことで、頼朝との関係が悪化。武力衝突寸前までいくが、義仲が頼朝の長女大姫の婿として11歳の義高を差し出すことで戦は回避された。義高は実質的な人質。
寿永2年(1183年)4月、平維盛を総大将に10万の兵が義仲追討軍として北陸に入る。火打城の戦い、三条野の戦いで勝利し、歌舞伎の勧進帳で有名な安宅の関も落とし、連戦連勝。越中へと迫った。
寿永2年(1183年)5月9日。義仲追討軍先遣隊として5000の兵で寒原の険(新潟県糸魚川市親不知付近)を目指していた平盛俊は、義仲軍先遣隊今井兼平6000の兵が御服山(富山県呉羽山)に布陣したことを知って、般若野に布陣して休憩を取った。今井兼平は盛俊軍が動かないと見て、夜襲をかけた。盛俊軍は踏ん張ったが昼過ぎに退却。倶利伽羅峠へと戻ることとなった。
続く。
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
木曽義仲追討軍は、寿永の北陸出兵で「源頼朝、同信義、東国北陸を虜掠し、前内大臣に仰せ追討せしむべし」という宣旨だったので、源頼朝、武田信義という源氏の有力武将を討伐するつもりでの出兵だったみたいです。
伊勢平氏の清盛一派は団結が比較的強くて壇ノ浦まで一族で戦うのですが、頼朝の河内源氏は身内同士で領地争いしたり略奪したりとひどい有様です。
治承・寿永の乱(いわゆる源平の戦い)は貨幣経済で有利な平氏が源氏に負けるという希有な戦でもあります。
戦ばかりの源氏 京から役人の武士が来て この岩からこちらとかこの川からこちら
こっからここまで とか領地の引き合いで賄賂であったり色仕掛けであったり
いろいろとしたようですね もちろん役人の武士も分かっているけれど 時には仲裁の最中に
切られたり またややこしい人間相関図を作ったり
でも概ね お話の中の話で 真面目に領地のことを考えるとたわけではないですが
一族の長が全てを管理しないとダメなのですよねーあとは管理を任されて領地として持っていることで
権力を表しますが
当時の日本人の人口で10万人の大軍を動員したとなれば相当に凄いですが平維盛なので
いわゆる時代が下ればいわゆる錦の御旗と同じこと
でも平氏の源氏の争いは領国争いに権力争いと
何だか公家になかった人間味あふれるしかし血で血を洗うような戦いばかり
文字通り刀に掛けた戦いばかりですからね~
kiriさんの歴史のフィールドワークの見識の深さに感服です。お詳しいですね^-^
では~