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芭蕉が愛した木曽義仲 その4

寿永2年(1183年)511日。般若野から後退した義仲追討軍は、加賀国と越中国の国境にある砺波山(富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町)に平維盛、平行盛、平忠度ら7万余騎、能登国志雄山(石川県羽咋郡宝達志水町)に平通盛、平知度ら3万余騎の二手に分かれて陣を敷く。義仲は源行家、楯親忠らの別働隊1万余騎を志雄山へ当てて牽制させると、Ⅱ万余騎で砺波山へと向かった。樋口兼光を平家の背後に回り込ませ、昼間は合戦も行なわず油断した義仲追討軍が寝静まった夜中に大きな音を立てて襲撃する。平氏方は大混乱に陥り、退路を樋口兼光に断たれていたこともあって、倶利伽羅峠の断崖から大半が転がり落ちて壊滅する。平維盛は10万騎のほとんどを失い、京へと逃げ帰った。

倶利伽羅峠の戦いでは、牛の角に松明をくくりつけて敵陣に放つシーンが有名だが、中国戦国時代斉国の田単が用いた「火牛の計」を脚色したものと考えられている。火牛の計は角に短剣、尻尾に松明をくくりつけてお尻が焼けることで怒り狂った牛を敵陣に突っ込ませるもので、角に松明をつけると牛は突進せず暴れ回ってしまうだけだろう。火牛の計は紀元前217年、ローマ軍によってアゲル・フレルヌスに閉じ込められたカルタゴ軍のハンニバルが用いて、脱出に成功している。

寿永2年(1183年)512日。志雄山へ出した源行家隊が平通盛、平知度らに散々に蹴散らされていたところに、氷見の湊を渡河した義仲2万余騎が救援。乱戦となって義仲追討軍を圧倒して、平知度を討ち取る戦果を上げた(志保山の戦い)。

寿永2年(1183年)61日。京へと敗走する平維盛ら義仲追討軍を追撃する義仲軍が加賀国篠原(石川県加賀市旧篠原村地区)で捉えて散々に打ち破った。平盛俊、藤原景家、藤原忠経ら主だった侍大将も命からがら逃げ去った。

「平家物語」―篠原―実盛―の章では、総崩れとなる平家方の殿を、老将斎藤実盛が引き受けて奮闘する。若々しく戦いたいと白髪を黒く染めて奮戦する実盛は手塚光盛に討ち取られるが、黒髪だったため首実検でも実盛とわからず。首を付近の池で洗ったところ、たちまち白髪となって、実盛と確認された。

斎藤実盛は大蔵合戦で父義賢が討ち取られた際に、2歳の義仲を木曽へ落ち延びさせてくれた恩人であり、義仲は人目も憚らず号泣したという。

石川県小松市多太神社には斎藤実盛の甲がある。「奥の細道」で松尾芭蕉が実盛を偲んで小松を訪れた際、実盛の甲を見て「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と詠んでいる。

続く。

 

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2021/07/09 16:00
>ありおりはべりさん
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
三国志のゲームは一騎打ちで勝利するとどんなに不利な戦況でも勝利できた記憶があるのですが、日本の戦でも戦国時代辺りまでは勝つために総大将を狙えは常識でした。大坂夏の陣で真田信繁が家康本陣へ突っ込むのは家康を討ち取ると変わると信じてですね。実際、圧倒的優位に立ちながら総大将が討死して戦がひっくり返った例はいくらでもあります。
だから、正々堂々がいいとされていたのですが、義仲にしろ義経にしろ、孫子の兵法通りに兵は詭道なりを地でいっていますよね。
天皇家や貴族は軍事に関して決して自分達の手を汚すことなく、他家に命じてやらせていますね。

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2021/07/08 23:50
火牛の計 実際、ハンニバルは世界史で少し聞いたぐらいですが名将ですよね^ー^

世間的には梅雨で蝸牛の計ではないですが ジメジメの蒸し蒸しです。

こちらも明日から大雨の予報を出ているので静岡の熱海の映像を見ると
盛り土ってそんな簡単にやっていいの とか思ったりします。

話し戻しますね少し 自分は三国志のゲームの古いものをやっているのですが
木牛が登場します。なかなか強力な攻城兵器です。部隊を攻撃するのにも使えます。

ただ兵士の訓練度に応じた気力があるので それを使い切ればただの攻撃力を失った
部隊になりますが(;^_^A

藤原氏も兵士も 朝廷の名で 木曽義仲を打ちに行き 返り討ちですね

京へと凱旋したのだったかなーと思い出したりしています。ただ二度目は無かった気がしますが
兵法家としての側面より 猛将としての側面や巴御前のことばかり有名ですが

知略派でもあり実戦経験の豊富ですね となれば 源義経はやはり凄いことになります。

しかし源氏の武将は健気な子が多いですね

斎藤実盛に借りというより命の恩人を戦で打ち取るしかなかった運命など源氏の武将には色気とロマンが
ありますね 平氏は歴史的にみれば 嫌なこと 手を汚す仕事 など 朝廷というか

天皇家の意向として 数々の武功と敗戦を繰り返し まあ深く食い込み過ぎて権力の中枢から
落ちていきますが

自分の母は若い頃 たまたま山中の平家の落人の集落を旅先で訪れて もちろん昭和の話ですが
野菜を貰ったお礼にコンビーフの缶を渡すと大変、喜ばれたそうです。

源氏と平氏が平氏側の人間の仲裁で平氏の温泉宿で仲直りをしたのが平成の頃だったとか聞きます。

今の世で源氏も平氏もないですが コンビーフの話ですが母の若い時の話なので
半世紀以上前の話です。

また熊本の相良氏や那須氏の集落も訪ねる機会があったようです。こちらは恐らく源氏でしょうね

フィールドワークとなれば郷土史なのでしょうね~

こちらの街は福岡の大友宗麟の支配地域徳川政権下では黒田藩でした。

倶利伽羅峠の戦いは詳しくは存じませんが 落石の計でもあったのかな?と思ったりしています。

では~

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2021/07/08 15:54
>Mt.かめさん
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
倶利伽羅峠の戦いで火牛の計が用いられていないことはほぼ確定と言われています。
この時代は正々堂々しか評価されなくて、計略を用いて大軍を破った木曽義仲の評価は低いです。義経も孫子の兵法で言えばかなりの戦上手ですが、やっぱり評価が低いですもんね。
牛はもしかしたら「農奴」などのうしと呼ばれた人たちかもしれないですが、ホンモノの牛が突っ込んできたら当たらないように祈るしかないですね。
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2021/07/07 17:38
有名ですよねー火牛の計。
あれってスペインかどっかの「牛おい祭り」みたいに
牛の群れをがーーっと大勢で追い立てて突っ込んだのかもですよね。
その場合は牛の周りに松明持った人がいたのかも。牛の群れが突っ込んで来たら
こわいわー(^▽^;)




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