芭蕉が愛した木曽義仲 その5
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- 2021/07/08 16:51:09
寿永2年(1183年)6月、越前国、近江国を抜けた義仲軍は、入京のため比叡山延暦寺との交渉に入る。義仲の手書(右筆)である大夫房覚明が有名な山門牒状を書いて送る。
義仲倩見平家悪逆保元平治以来長失人臣礼 雖然貴賤束手緇素戴足 恣進退帝位飽掠領国郡 不論道理非理追捕権門勢家不道有罪無罪損亡卿相侍臣 奪取其資材悉与郎従没収彼庄園濫省子孫
就中去治承三年十一月奉遷法皇於城南離宮奉流博陸於海西絶域 衆庶不言道路以目 加之同四年五月奉囲二宮朱閣驚九重之垢塵 ``爰帝子為逃非分害密園城寺入御之時義仲先日給令旨間欲挙鞭処怨敵満巷予参失道 近境源氏不参候況於遠境
然園城依無分限赴南都間宇治橋合戦 大将三位入道頼政父子軽命重義雖励一戦之功不免多勢之責 暴形骸於古岸苔流生命於長河波 令旨趣銘肝同類悲消魂 依之東国北国源氏等各企参洛欲滅平家
義仲去年秋為達宿意揚旗把剣出信州日越後国住人城四郎長茂率数万軍兵発向間当国横田河原合戦 義仲纔以三千余騎破彼数万兵了 風聞及広平氏大将率十万軍士発向北陸 越州賀州砥浪黒坂塩坂篠原以下城郭数箇度合戦 運策於帷幄中得勝於咫尺下 然討必伏攻必降 不異秋風破芭蕉 相同冬霜枯群葉 是偏神明仏陀之助也 更非義仲武略 平氏敗北上企参洛者也 `今過叡岳麓可入洛陽巷
当此時密有疑貽 抑天台衆徒同心平家乎与力源氏乎 若可助彼悪徒向衆徒可合戦 若致合戦叡岳滅亡不可旋踵 悲哉平氏悩宸襟滅仏法間為靖悪逆起義兵処忽向三千衆徒致不慮合戦 痛哉奉憚医王山王遅留行程為朝廷緩怠臣遺永武略瑕瑾謗謾 迷進退所啓案内也 庶幾三千衆徒為神為仏為国為君同心源氏誅凶徒浴鴻化 不堪懇丹至 義仲恐惶謹言
寿永二年六月十日 源義仲 進上 恵光坊律師御房
寿永2年(1183年)7月22日。義仲軍は比叡山に登り、東塔惣持院へ入った。伊賀国から源行家が、丹波国から足利義清が、東海道から平家追討使として安田義定が、摂津国から多田行綱が、平氏包囲網を形成する。7月25日、都を守ることを諦めた平氏は、安徳天皇、守貞親王を擁して西国へと落ちた。後白河法皇は比叡山へ逃れて平氏から身を隠した。
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
安徳天皇女性論は有名で、ほぼ確実と言われていますね。
源義経も安徳天皇は生かしてお連れしろと厳命を受けていたので、入水は想定外だったはずです。
ですが、女子だったとすると何故入水なのか、三種の神器を一緒に沈めたのはなぜかということは繋がっていておもしろいです。
古文書で行けば 有名な山門牒状 は 平家物語でも有名なものですかね~
自分は戦国史以降のことを少し知っている位でしかないので詳しくは分かりませんが
安徳天皇 海に身を投げたというか一緒にドボンとされた童子ですね
マンガ アンゴルモアでは 生き延びていて対馬で子孫を残している老婆として
描かれていますね 孫娘はその作品ではヒロインですが
作画的に美形です。
夏の合間に涼しくなりたいときにはアンゴルモアという漫画を進めますが
元寇時の対馬の行く末なので なかなか悲惨です。
青年誌に乗っていたようなのでまだいいですが オチからいうと孫娘と京から流された勇将な武士は
助かります。
でも 何故助かることが出来たとすれば偶然です。
ほぼほぼ登場人物は全滅です。
今は相撲の夏場所(名古屋場所)が開催されていますがモンゴル人力士の白鵬や照ノ富士の応援を
したくなくなるぐらいにモンゴル兵は酷い描き方をされています。
当時からの朝鮮半島の複雑さというかモンゴルへの帰順ぶりなど歴史的にみても
創作の部分を含めて面白みはあります。
ただ暗い場面が目立ちますけどね(;^_^A
ででは~