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芭蕉が愛した木曽義仲 その6

寿永2(1183)727日。比叡山に隠れていた後白河法皇は、義仲に味方した近江源氏の山本義経の長男、錦部冠者義高に守護されて京へ戻った。翌28日、義仲軍が入京。蓮華王院に叔父行家とともに参上する。お互いに前後せずふたり並んで拝謁したという。30日に開かれた公卿議定により、勲功第一が源頼朝、勲功第二が木曽義仲、勲功第三が源行家と確認があり、810日の勧賞の除目において、木曽義仲は従五位下・左馬頭・越後守、源行家は従五位下・備後守に任ぜられた。行家が不満を述べたため、16日に義仲は伊予守、行家は備前守に遷った。「平家物語」で義仲は朝日の将軍に任じられているが、朝廷の官職にはない名目で、実際には征夷大将軍かそれに比肩するものであったと思われる。征夷大将軍はもともと幕府を開いて政権をゆだねるものではなく、恩賞として適当とされていたはず。義仲が頼朝に敗れたため、頼朝が同じ官職につくのは都合が悪いと考えた誰かの筆による朝日の将軍ではないだろうか。

叔父の源行家は、頼朝に冷遇されて義仲につき、入京すると義仲と同等の褒賞を要求するなど自分本位のところが目立つ。墨俣川の戦いで平維盛、平重衡に惨敗、志保山の戦いでも平通盛、平知度らに敗れ、軍事面ではいいところがなかったのにもかかわらず勲功はあったと主張している。都育ちのため貴族に上手く取り入るが義仲と不和になり、京へ脱出。播磨国で平知盛、平重衡に惨敗(室山の戦い)、河内国長野城でも義仲方樋口兼光に敗れ、紀伊国名草へと逃げている。

義仲が討たれたのち、元暦元年(1184)2月に京へ戻ったものの、平家追討には参戦しなかった。元暦2/文治元年(1185年)8月、頼朝が行家討伐へ動くと、後白河法皇から頼朝追討の院宣を受けての反攻へ出たが味方が集まらず。河尻の戦いで多田行綱らに襲撃され、暴風雨で西国渡航に失敗したのちに、和泉国日根郡近木郷(大阪府貝塚市付近)の日向権守清実の屋敷に匿われる。翌文治2年(1186年)5月、密告によって鎌倉幕府方北条時定の手勢に捕らえられ、山城国赤井河原(京都府京都市伏見区)で長男・光家、次男・行頼とともに斬首された。

続く。

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2021/07/13 10:46
>Mt.かめさん
おはようございます^^コメントありがとうございますm(__)m
日本は家の存続のために血統以外の選択肢が優先されることが多いですね。
老舗の料理屋さんやお菓子屋さんは、職人の中でいちばん上手な人を娘婿に迎えるってことをよくしていますし。

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2021/07/12 16:03
歴史って「勝ったもんが好きにできる」面がありますからねー(^▽^;)
コミックの「大奥」でも最終巻で、そんな感じの話が出てきて
なかなか泣かせるシーンだったんですよー。昔の人って
今と違いますからね。親子でも身分が高いほど自分では育てないし。
我が子可愛さで家を滅ぼすことも多いですし、家を存続させるためには
それにふさわしい人物を養子にすることも珍しくはないですから。今のような家族の形が
できたのって、ほんのつい最近ですもん(^▽^;)
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2021/07/12 15:49
>Mt.かめさん
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
鎌倉幕府について、なぜ政子は自分の子どもの頼家、実朝を殺したのでしょう?って中学生のときに質問しまして、「教科書に書いてないことを聞くな」って職員室に呼ばれて叱られました。菅原道真のときと合わせて一本で歴史で質問は許されないというひどいことに。。。
このときの疑問が大学の研究室でフィールドワークをやるきっかけになっていたりします^^;;
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2021/07/12 15:46
>ありおりはべりさん
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
後白河法皇は白河法皇と同じような専制政治を行なっていたこともあって、後の白河天皇から後白河法皇と諡が贈られています。後醍醐天皇も後水尾天皇も後とつく天皇は前の天皇の業績を踏まえてのものですね。
平維盛は、父の重盛が早逝したや鹿ヶ谷の陰謀の藤原成親の娘を妻としていたこともあり、平氏の中では主流から外れ、富士川の戦いで水鳥に驚いて壊滅的な敗北を喫して逃げ帰った(実際は出征途中で逃亡などがあって勝ち目がなかった)こと、倶利伽羅峠の戦いの戦いで惨敗したことのふたつで決定的に戦ベタの烙印を押された気がします。

日本の天皇家は、軍隊を持たない権力者で、世界でも珍しい存在です。戦に巻き込まれても武士たちは丸腰の相手を攻めたという不名誉が嫌なのか、天皇に刃を向けたことはほとんどないですね。そして、天皇家も武士に対して外敵を私のために滅ぼせ、済んだら速やかに都から退けっていう姿勢です。

現代でもハブ退治のためにマングースを入れたら、手強いハブよりネズミとかいろいろ日本が守りたい小動物を狩ってしまったという思い通りにならない例が当てはまりそうですね。
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2021/07/11 20:25
鎌倉幕府の行く末なんかをみても、
頼朝って結局は奥さんの北条政子のおかげで
将軍になってるのかもしれないしね。なんだかんだ
天皇家も平家も源氏も「おごる○○は久しからず」的な・・・(^▽^;)
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2021/07/11 01:01
後白河法皇 と聞くと 今様とか思ったりしますが

型をある程度嫌いながら 白河法皇ではないですが だんだんと化け物地味て ある意味で武士との
権力の境界線を綱渡りしながら生きた方ですが

平氏が挙げた武功は 最終的には壇ノ浦で全て水泡に帰してしまったのでなんですが

平知盛、平重衡 特に 平知盛は名の通り知略派だった気がします。平維盛はこちらは武将で剛腕な
イメージがありますね豪傑なイメージ

院宣を出すのはいいのですが 合力してと促して分断するやり方は 武士を飼い犬ぐらいにしか
思っていないというか天皇家の意地なのでしょうが

それでもやりようはあったような気がします。公家も多く暗躍し、またバッサリと切られたりしたでしょうね

どちらにしても どの辺まで権力に近づくのかですが 結局、検非違使ではないですが
中途半端な位置にいた源氏は苦労が絶えず 身内で争い

平家は栄華を極めつつ 弱体化

権力の残りを天皇家はいつももっていて院政に院宣 まあ結果、源頼朝は 結果論と責任論で言えば
義経を自ら失うことに仕向けましたし

梶原景時の歴史的な評価は 何となくお傍御用人じゃないですが 本当にしんそこ義経を警戒する
必要性はあったのか 官位の授与など 義経に調停工作を命じて 官位を受け取らせる
頼朝に授与するなら勅使を別に帯同するなどして 腰越状など書いた後に

動くことが出来なくなったことを考えても 兄上に何か献上するモノを問うのではなく
古風に我が太刀をとか贈るとか考えるから

そうじゃねーよ 何もしないでじっとしとれ というのが 鎌倉の御家人にはまた気に入らなかったり

まあ手柄立て続けましたからね 後方から源氏の総大将となった頼朝がいたからできたことと
兄弟でわかっていながら

こんなところの遠因にも朝廷の院宣とかからんでいるし

歴史は結局、人なんだよねー人間関係と思うのですよねー

では~




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