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芭蕉が愛した木曽義仲 その9

寿永2(1183)919日、後白河法皇は義仲を呼び出し「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」と責め立て、義仲は平氏追討を奏上し、後白河法皇は義仲に剣を与えて出陣させた。

義仲出陣後、鎌倉の頼朝から朝廷に申状が届き、「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」などなど都の有力者が益するものだったため、朝廷は大いに喜び、109日に頼朝を本位に戻した(平治の乱で止められた従五位下の位階に復位)のち、1014日に寿永二年十月宣旨で頼朝に実質上の東国支配を認めた。

 寿永2年(1183年)閏101日、備中国水島(岡山県倉敷市玉島)で足利義清、足利義長兄弟、海野幸広が率いる義仲軍と平重衡、平通盛らの平氏軍と激突。海上での戦いは平氏軍が義仲軍を散々に破った。足利義清、海野幸広、足利義長、高梨高信、仁科盛家ら有力武将を失う壊滅的な敗北で京へ退却することとなった。

足利義清、義長兄弟の弟、義兼はのちに室町幕府を開く足利氏の祖であり、義清の娘は新田義範の妻となり戦国時代山陰を支配した山名氏の祖。高梨高信の一族は鎌倉幕府に仕えてのちに北信を領地とする高梨氏の祖であり、海野幸広は滋野の流れを汲む海野氏の一族で、真田昌幸、信之、信繁も海野一族と言われる。仁科盛家は信濃国安曇郡を治めていた大豪族の一族で、義仲に仕えた仁科大助はのちに戸隠流忍術の祖となる。仁科氏は戦国時代高遠城で壮絶な討死をした仁科盛信へと繋がっていく。

続く。

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2021/07/19 21:40
>ありおりはべりさん
こんばんは^^コメントありがとうございますm(__)m
真田一族は本姓は滋野で、真田は真田郷からと言われています。
郷は律令時代に朝廷によって作られた村の単位で、真田氏は真田郷を取り戻すために村上氏、諏訪氏などと戦っていました。
足利氏は二引両の家紋が有名ですね。新田氏は足利氏の庶流なので。どちらも河内源氏からですが、足利氏は下野国足利郡足利庄が領地。庄は荘園からで私費を使って開発した土地。新田氏は上野国新田郡新田庄が領地なので、源氏だけど両地名からってことですね。

真田昌幸は信之の幼名源三郎、信繁の幼名源二郎に源氏の子どもという意味で源を使っているのは謎なのですけどね。
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2021/07/17 01:12
仁科氏は武田家の配下だった気がしますが 徳川の攻めにも抵抗した猛将ですね

足利尊氏の時代の足利家はふたっぴきりょうを持つ源氏ですが本家扱いなのですよね
新田義貞も家禄からするとどうなのか考えると・・・・・・まあ源氏は源氏ですね

そんな源氏の流れを汲む仁科家が戸隠流の忍者の家のルーツとは知りもしませんでした。
となると検非違使とすっぱ らっぱ 忍び などの区別の専門性は時代が下ったから発生しただけで
元は繋がりがありなのだなーなどと思ったりしています。

戦闘集団には変わりないですし

海野氏の一族で、真田昌幸、信之、信繁 ということは流れてもしくは領地として与えられたもしくは
獲得したのが今の長野県であったり仁科氏であれば山梨県なのかと思うと

どちらもあまり土地としてその時代は稲作に適しているとはいうのは難しい土地柄だなと思ったりしています。

ただ、上田城を攻めた兵士が熱いお粥を顔にかけられて悶絶して攻めるためのはしごから落ちた
なった話など聞くと

食べ物の粥とは分かってでしょうから 米でやられるという深層心理の驚愕さはかなりエグいと思うのですけどね(;^_^A

熱した泥水など プチ火砕流と変わりませんからね><

海野氏の一族で、真田昌幸、信之、信繁はおっかないです。^-^

では~




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