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芭蕉が愛した木曽義仲 その11

寿永2(1183)121日。義仲は院御厩別当に任官し左馬頭を兼任して軍事権を掌握する。10日に左馬頭を辞するが、頼朝追討の院庁下分を出させて官軍として体裁を整えた。

寿永3(1184)16日。源範頼を総大将とした鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国に入ったとの噂が京に届く。範頼率いる大手軍35千騎が美濃国から近江国瀬田(滋賀県大津市唐橋町)へ、義経率いる搦手軍25千騎が宇治(京都府宇治市)へと進軍。115日。義仲は自らを征東大将軍に任命させて平氏と結んで西国へ落ちるか、後白河法皇を奉じて北国へ落ちるか、鎌倉軍と戦うか、決め手がないまま義仲は2千騎余で鎌倉軍とぶつかることになる。

平氏への備えとして義仲四天王のひとり樋口兼光に5百騎を与えて河内国へ。範頼軍が攻め寄せる瀬田には義仲四天王の今井兼平に8百騎を、義経軍には義仲四天王のふたり根井行親、楯親忠親子と志田義広に5百騎兵を当てた。自らは百騎余で御所を警護する。このとき、義仲は京の妻、藤原伊子との別れを惜しんだ。

藤原伊子はのちに、内大臣源通親との間に子を生んだ。その子どもが曹洞宗開祖道元である。

寿永3年(1184年)120日。義経軍は根井行親、楯親忠、志田義広らが守る宇治川に乗り入れる。このとき、頼朝から名馬生食を賜った佐々木高綱と頼朝から磨墨を賜った梶原景季の宇治川の先陣争いがあり、景季にペテンをかけた高綱が一番乗りを果たした。根井行親、楯親忠らは必死で防戦するが多勢に無勢で防ぎきれず、根井行親は討死、楯親忠は退いて義仲と合流、志田義広は敗走する。

京には七口あり、北へ抜ける大原口、鞍馬口、鷹峰口、南へ抜ける伏見口、鳥羽口、西へ抜ける丹波口、東へ抜ける粟田口で、範頼軍35千騎は粟津から粟田口を、義経軍25千騎は、宇治から鞍馬口を狙っていた。義仲軍にはもう勝ち目は万に一つもなく、今井兼平が敵を防いでいる間に、丹波口から西へ抜けて平氏と結ぶか、大原口から北陸へ抜けて木曽で再興を果たすかしか道は残されてなかった。

義仲は巴御前とともに三条河原へ進軍し、鎌倉軍は誰もが大原口から北陸へ落ちると考えていたが、義仲は迷わず鴨川を渡って粟田口を目指した。

平家物語 巻九 木曽最期には「木曾殿今井が手を取つて宣ひけるは 義仲六条河原にていかにも成るべかりしかども其処で討たれんより汝と一所でいかにも成らんと思ふ為にこそ多くの敵に後ろを見せてこれまで遁れたるはいかに と宣へば今井四郎 御諚まことに忝う候ふ 兼平も勢田にて討死仕るべう候ひしかども御行方の覚束なさにこれまで遁れ参つて候ふ と申しければ木曾殿 さては契り未だ朽ちせざりけり 義仲が勢山林に馳せ散つてこの辺にも控へたるらんぞ 汝旗揚げさせよ と宣へば巻いて持たせたる今井が旗を差し上げたり これを見付けて京より落ち来る勢ともなくまた勢田より落つる者ともなくほどなく三百余騎ばかりぞ馳せ集まる」とある。

木曽義仲を無事に北陸へ落すため必死で範頼軍を防いでいた今井兼平は、自分を心配して駆けつけてくれた義仲を見つけてどう思ったであろう。「かたじけなう候」の一言に万感の想いが込められている。

して、木曾殿最期となる粟津の戦へ突入する。

続く。

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2021/08/02 17:12
>ありおりはべりさん
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
義仲よりも先に範頼、義経の鎌倉方が京に入っていたら、評価は逆になったと言われています。
帝や貴族は、自分達に都合が悪いものは取り除かれて当然と思っているので、きちんとした褒賞は出ていないですし、清盛が後白河法皇を幽閉したことに始まって天皇家をどう扱うかは前例ができてきましたからね。
木曽義仲についてはNHKで取り上げられたことがあったのですが、あまり好意的ではなかったですね。
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2021/08/02 00:37
木曽義仲にこんなに資料が残っているとは知りませんでした。

やはり郷土史となると違うのかな?と思いつつ歴史だから変わりようもないけれど
見る人の角度によって違いを見せる人物像もあると思います。

ただ、征夷大将軍に任じられるのが少し遅かったのかな?とも思います。

これも天皇家に弓矢を向けてからの行動ですから 何を置いても目の敵にされたというのは
当時の風潮なのでしょうね

武士がその後の時代を切り開くための布石として置かれた戦いだったのかなとも思います。

自分はあまりレシキ通ではありませんが 木曽義仲の大河ドラマとかあまりその生涯を知られていないので
誰か?同時期を生きた人物の話を合わせてみてみたい気がします。

NHKのBSの10時台とか^-^

それでは~




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