芭蕉が愛した木曽義仲 その15
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- 2021/07/28 17:12:20
日照山徳音寺(長野県木曽郡木曽町日義)は木曽義仲一族の菩提寺。義仲の霊廟があり、上段に義仲の墓、下段に樋口兼光、巴御前、小枝御前、今井兼平の墓が建立されている。
木曾三社神社(群馬県渋川市北橘町下箱田)は、義仲が粟津で討たれたのち、遺臣の今井氏、高梨氏、根井氏、楯氏、町田氏などが義仲と巴御前の遺児である木曾義基を匿って落ち延びた伝説があり、信濃国岡田・沙田・阿礼神社を勧請して立てられたという。
義仲と一緒に戦った巴御前の、巴は義仲、兼光、兼平らと幼い頃に遊んだ木曽の巴が淵から名づけられたというのが一般的だが、逆に巴御前から巴が淵と名づけられたとも言われている。
巴というのは象を食らう蛇のことで巴蛇という。本質が蛇神あるいは龍神で、女性で戦いの神と言えば弁才天であり、巴は弁才天に比されたのではないか。高田崇史さんによると、義仲寺にある松尾芭蕉の墓は三角形であり、芭には巴の文字が入り、弁才天を祀る江島神社の神紋は三鱗であって、芭蕉はそれほどまでに義仲や巴御前が好きだったのだ。
義仲が鎌倉に人質として差し出した義高は、元暦元年(1184年)4月21日に頼朝が義高を殺そうとしていることを知った大姫によって逃がされる。海野幸氏が身代わりとなり、義高は女房に扮して屋敷を出て馬で逃げた。気づいた頼朝は幸氏を捕らえ、堀親家に命じて追っ手をかけた。4月26日、武蔵国で義高は捕らえられ、入間河原で堀親家の郎党、藤内光澄によって切られた。しかし、義高の死を知った大姫が病に伏せってしまい、北条政子が、大姫が病になったのは義高を討ったせいだと責め立てたため、頼朝は6月26日に義高の首を斬った藤内光澄を晒し首にする。なお、身代わりとなった海野幸氏は忠義あっぱれとその後も御家人として仕えている。
続く。