芭蕉が愛した木曽義仲 その16
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- 2021/07/29 16:56:07
九条兼実は「玉葉」で「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」と平治の乱で敗北して斬首された藤原信頼と比較し『平治元年(1160年)12月9日に源義朝、源頼政らと挙兵し、藤原信西を自害に追い込み実権を掌握。しかし、翌日平清盛が帰京すると、二条天皇を奪われ、幽閉していた後白河も脱出し、義朝に「日本一の不覚人」と見放される。後白河を頼ったものの許されず12月27日に二条河原で斬首された』、「およそ常日頃、義仲の計画では、京中を焼き払い、北陸道に落ちるべしのようだ。しかし一家も焼かず、一人も損せず、義仲のみ一人さらし首にさせられた。天は逆賊を罰した。」と評は続く。義仲が都落ちするときには平氏がやったように民家に火をかけて、略奪してと京が戦乱に巻き込まれるような噂があったが、義仲は一家も焼かず、無関係な人は一人も殺さず出ていき、戦で敗れてひとり晒し首なった」と。天は逆賊を許さず義仲を罰したとあるものの、当時は戦の有利を得るために町を焼き払うのが当たり前だったのだが、義仲が静かに出ていったのは事実であろう。
義仲を追い落とす首謀者となった後白河法皇は、父の鳥羽法皇からは「天皇の器量にあらず」、兄の崇徳天皇からは「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評され、平治の乱で自害した藤原信西からは「和漢の間比類少なき暗主」と評された。近衛天皇が早逝されたときに、後白河の第一皇子である守仁親王が鳥羽法皇により立太子となり、天皇の子どもではない皇子が天皇になるのはいかがなものかという理由で、後白河が践祚する。すべて鳥羽法皇が描いたものであり、鳥羽法皇が崩御したあとに藤原信西と結んである程度の権力を手にした。平治の乱で信西が自害し、重要視されていなかったが、生き残って立場が変わる。美福門院が崩御して二条天皇派の力がなくなると、除目で自らの勢力を広げて実権を握る。平清盛と揉めて幽閉され、源義仲と揉めて幽閉され、源義経をうまく手懐けて源頼朝と対立するなど、長期的なビジョンはなく、そのときそのときにうまく立ち回って政敵を蹴散らした。
義仲には義仲の正当性があったが、後白河法皇と対立し、その後は義仲を討った頼朝の天下となったために、義仲の汚名は晴らされることはなかった。
続く。