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芭蕉が愛した木曽義仲 その18

『平家物語』では、義仲を粗野で乱暴な田舎者として描き、頼朝を品のよい男であると持ち上げて、うまく対比をつけている。

猫間(京都市下京区七条壬生付近)に住んでいたことから猫間中納言と呼ばれていた藤原光隆が義仲邸を訪ねたときの話。「猫が人間に対面するのか」と笑って食前を急いで用意させ、平茸の汁と塗りのはげた器に山盛りに盛った飯を出した。普段は上品な食事をしている猫間中納言が不潔に思って食べる振りをしていると、「猫殿は小食でいらっしゃる。猫の食い散らかしは止めてかっこみなさい」と勧めたので、猫間中納言は逃げ帰ったという。

貴族側から見ると身分の高い人物に汚らしい食事を勧めたという無作法だが、義仲から見ると、食事時に尋ねてきた猫間中納言にたいして、急いで食事を出させて、自分も同じものを食べている。飢饉で食糧難のときに、義仲は最高級のもてなしをしたわけだ。

また、義仲が初めて牛車に乗ったときに、急に発進したために義仲は仰向けに倒れて起き上がろうとバタバタ蝶のように両手を振り続けた。五、六町(約500から600メートル)も走って、異変に気がついた今井兼平が馬で追いついたあとで、牛飼が「簾の左右についた手形に捕まれば倒れません」と教えて義仲が感心するシーンや、後ろから乗って前から下りる牛車の作法を知らず、後ろから乗って後ろから下りた義仲を笑いものにしたりしている。義仲は確かに田舎育ちだったかもしれないが、京の人間が意地悪であることも証明されている。

壱岐判官平知康は鼓が上手いため鼓判官と呼ばれていた。知康は後白河法皇に命じられて義仲邸を訪れ「もっと京の治安回復に努めるよう」伝えた。義仲は、「あなたが鼓判官と呼ばれるのは、皆から打たれたからか、それとも張られたからか」とからかって追い返した。知康は後白河法皇に「義仲は大馬鹿者です。朝敵になるでしょうから、討伐しましょう」と進言して、臨戦態勢にはいる。

後白河法皇ははじめから義仲を追いだすつもりでいて、無理難題をふっかけ、自ら仕掛けて内乱も起こさせ、義仲の評判を落し続けた。誰が悪いのかは考えればわかることであっても、貴族たちにとっては法皇側が自分達の利益だった。だから、清盛が手に負えなくなると平氏を追討させ、義仲の評判が高くなると義仲の評判を落した。だからこそ、頼朝は京には入らなかった。遠く離れた鎌倉で政治基盤を作って影響を受けないようにしたのだ。

義仲は以仁王の宣旨を奉じて平氏を討伐し、京で正当性を主張して北陸宮の践祚を推しと、君のためを思って行動した。しかし、肝心の君のほうは守る価値が何一つない存在だった。明治維新の大きな力となった水戸学では、天皇は主君であり、どんなに無能でも貴きお方だというが、水戸学では義仲はまったく評価されていない。ことの善悪は天皇の味方がどうかだけの話できまってしまうのが明治維新を推し進めた側の理屈だった。結果、第二次世界大戦へ繋がり、天皇は絶対なんて思想が出てくるのだ。

水戸学は山崎闇斎から浅見絅斎に繋がる朱子学を発展させたもので、大陸からやって来た学問だ。ってことは忘れてはいけないよね。

もちろん、松尾芭蕉も芥川龍之介も水戸学で悪くいっていることなんて百も承知で義仲のことが大好きで褒め讃えているんだ。わがままで幼稚で言っていることが次々にかわったあげく、都合が悪いと政治を放り出す後白河法皇と、どんなに厳しい状況でも仲間を見捨てなかった義仲では。初めから勝負はついているよね。

おしまい。

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2021/08/05 15:57
>Mt.かめさん
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
徳川は皇室に介入して都合が悪い皇子が身籠もらないように子どもができたら押し潰したりしていたのですが、結果的に皇室は続きましたからね。歴史上はいくつも皇統が途切れているはずなのですが、うまく繕って神武から父系が続いてますし。
武士は名誉を重んじる種族なので、武器を持たないっていうのはすばらしい政策ですね。
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2021/08/04 17:45
神輿担いで権力握ったと思った方が
どんどんダメになっていきますからねー(笑)
なかなか恐ろしい戦略じゃないかと思ってますよ。
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2021/08/04 16:32
>Mt.かめさん
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
藤原氏によって平安時代はほぼ実権がなかったし、藤原氏が平氏になり、鎌倉幕府という武家政権ができてと、天皇家は凋落して血筋が絶える流れなのですが、日本は特別で天皇家は残して、政権交代するときは君臣を討つというかたちで変わっていきますね。
やはり独自の軍隊を持たないことが生き残る戦略だったのかも。
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2021/08/03 19:15
まあ天皇も実質的に影響力があったのは南北朝くらいまでかなー。
江戸時代から現代にいたるまで「都合のいいおみこし」という
位置でいたと思うんですよね。単なる「御旗」なんで御旗は
振る側にいいように振られてるだけじゃないかと思ったり。
そういう戦略で現代まで生き延びてきた家系かなーと。




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