竹取の翁とかぐやの大事なおはなし その3
- カテゴリ:勉強
- 2021/09/25 23:17:49
天人女房は羽衣伝説であり、天女の羽衣を取り上げて騙して女房とする伝説で世界各地に伝わっている。日本では、『近江国風土記』の天女は男と結婚して子どもを産むが、羽衣を見つけて天へ帰る昇天型と、『丹後国風土記』の老夫婦の子どもとなり酒を造って富をもたらすが、老夫婦に捨てられて天女は放浪してあるところへと流れ着く難題型に分けられる。『竹取物語』は難題型の変形だが、最後は月へと帰る。
『竹取物語』はまったくの空想による物語ではなく、モデルがいると江戸時代の国学者加納諸平が『竹取物語考』で考証している。かぐや姫に求婚する5人は石作皇子、車持皇子、阿倍御主人、大伴御行、石上麿呂。『公卿補任』大宝元年(701年)の項にある閣僚は、右大臣正二位 多治比真人嶋、右大臣従二位 阿倍朝臣御主人、大納言正三位 大伴宿禰御行、正三位 石上朝臣麻呂、正三位 藤原朝臣不比等。阿倍御主人、大伴御行、石上麿は名前もそのままで、官位も近い。石作皇子は多治比真人嶋と推測していて、多治比氏はもともと皇族であり、石作氏とは同族であることを理由として挙げている。車持皇子は藤原不比等と推測していて、不比等の母親は車持国子氏の娘で、『公卿補任』『帝王編年記』『尊卑文脈』では、天智天皇の子であると記載している。当時は広く信じられていた話で、作者が『竹取物語』に取り入れても不思議ではなかった。
さらに作家の杉本苑子は一歩進めて『竹取物語』は加納諸平の説を考証すると作者がわかると主張した。『竹取物語』の成立は藤原不比等の時代からさらに200年も経ってからで、藤原良房が摂政となった時代だ。天平勝宝9歳(757年)橘奈良麻呂の変で藤原仲麻呂が橘氏、多治比氏を、天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で藤原南家、蘇我石川氏、阿倍氏を、貞観8年(866年)の応天門の変で大伴氏、紀氏を、追い落として藤原北家の一強となっていて、かぐや姫に求婚した多治比氏、阿倍氏、大伴氏、石上氏は零落している。車持皇子のモデルとなった藤原不比等の血筋だけが隆盛を誇っていて追い落とされた氏族は深い恨みを抱いていたと考えられる。当時、藤原氏に追われた七つの大豪族、大伴氏、石上氏、蘇我石川氏、阿倍氏、多治比氏、紀氏、巨勢氏の中から、かぐや姫で先祖がバカにされている大伴氏、石上氏、阿倍氏、多治比氏を除く蘇我石川氏、紀氏、巨勢氏に作者がいるとしたのだ。さらに、大宝元年の『公卿補任』には続きがあって、紀朝臣麻呂を従三位として石上麻呂、藤原不比等とともに大納言としている。6人の貴族のうち5人がバカにされてひとりは登場もしていない。『源氏物語』の第17帖絵合で紫式部は『竹取物語』絵巻の文章は紀貫之、絵は巨勢相覧という設定を作っている。ことなどから、紀貫之が作者としているのだ。
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
もうひとつは、私が考え始めると寝なかったからでしょうね。
小学校2年生くらいのときに家から見える山が火山だと父に教えられて、上って確かめようとしたことがあって。まあ、そんな子どもでしたから。
逆に「どこから来たと思う?」「どこに行ったと思う?」
っていう質問をして、子供の答えを楽しみにしてました。
大人が何でも知ってると思うなよヽ(^o^)丿
っていうのが私の方針(笑)
おはようございます^^コメントありがとうございますm(__)m
私は質問がエンドレスで続くからじゃないかと思われます。月からって答えが返ってくると、月のどこ? どんな家?って続いたので面倒になったのかも。ちゃんと応えてくれる親だと好奇心旺盛な子どもになると今は言われていますね。
「源氏物語」は怨霊の話って文研の試験で書いたら、研究室で説教されるくらいなので;;
「どこに行くの?」これも月からっていいそうだなー、私だったら。
理系の先生より文系の先生のほうが、疑問や変わった理論に対しては
激しく抵抗しそうですよねー。まあ先生に寄るのかもしれないけど(^▽^;)
こんばんは^^コメントありがとうございますm(__)m
子どもの頃に絵本で読んでもらったときに、かぐや姫はどこからきたの?どこへ行くの?と母親に聞いて「わからん」って叱られたものです。大人になって大学の研究科で国会図書館に通っているうちに怨霊封じの可能性を考えて、教授と結構やり合いました。文学の教授って、紫式部や紀貫之が至上なので。
紀貫之が作者と言われても納得しそう。
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
丹後国風土記の羽衣伝説で天女が祀られたのが豊受大神で、籠神社などの由緒となっています。
むかしの変体仮名は書く人によって癖もあるし、決まり事通りに書かれているわけではないから、判読は難しいですね。読めるようになるまでかなり勉強しました。
紀貫之直筆の「土佐日記」は足利義政に献上されたのを最後に行方不明なのが残念ですね。。
話はそれますが、紀貫之の書いた文字が好きです。
判読はできませんが;;