竹取の翁とかぐやの大事なおはなし その5
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- 2021/09/28 16:38:53
紀貫之が小野小町を衣通姫の流としたのは、歌の様が似ているだけではなくふたりの人生が似ているということ。
絶世の美女といわれていた。天才的な歌人である。帝に愛された女性である。その恋は叶えられなかった。強い権力を持った皇后に嫉妬された。生涯、独身を貫いた。そして、ふたりともに帝の一夜妻だった。
高田崇史「QED 竹取伝説」で、
衣通姫は「允恭天皇七年の十二月。新室に宴を開いて、皇后自らが舞った。そして、舞い終わって、当時の風俗のままに、『娘子を奉る』と言って-嫌々、やむなくだけれど-自分の妹の弟姫を天皇に献上した。天皇は喜んで、姫を近江の坂田より召し上げようとしたけれど、姫は皇后の心情を畏れて、七度召されても参向しなかった。そこで、舎人中臣烏賊津使主が派遣され、庭に伏すこと七日間-実は、衣に糒を忍ばせて、こっそり食べていたんだがーついに姫を伴って、倭の春日に至ったんだ。天皇は初め、姫を藤原に住まわせていたけれど、やはり皇后の嫉妬は止まず、特に、皇后が雄略天皇を出産しようとしていた晩に、天皇が藤原京に行幸しようとしたことを知った皇后は、産屋に火を付けて死のうとしたほどだった。その時は一応収まったけれど、それ以降も藤原京に行幸しようとする天皇に対して、皇后の嫉妬はますます深まる。そこで天皇は、河内の茅渟に別宮を造成して、姫を住まわせた。天皇はこの姫を深く愛して、大伴室屋連を通して諸国造らに命じて、姫のためにご名代の藤原部を定めた。」
小野小町は「仁明天皇の更衣だったにもかかわらず、天皇崩御と同時に宮廷を追い出された。更衣であるからには、天皇が崩御した後は、永代の所領が更衣田として約束されているはずだった。しかし小町は、それすらもらうこともできずに、宮廷から追放されてしまった。だから『卒塔婆小町』や『玉造小町』などを見ても、みな一様に小町をモデルにした女性の、哀れな老後が描かれているんだ。葛飾北斎の『関寺小町』の絵なども同様だね」
衣通姫の詠んだ有名な歌に
我が夫子が来べき夕なりささがねの蜘蛛の行ひ是夕著しも
この歌を聞いた允恭天皇は心を打たれて
ささらがた錦の紐を解き放けて数は寝ず唯一夜のみ
と返した。
衣通姫の歌は「私の夫が訪れそうな夜だ。なぜならば、笹の根元の蜘蛛が糸をかける様子がはっきりと見える」というような意味で、古代中国の荊州や幽州では、蜘蛛がやって来て人の衣につくと親しい客が来訪する前兆だという迷信があった。
允恭天皇の返歌は「ささら模様の錦の紐を解き放って、幾夜とは言わずに、ただ一夜だけ共寝しようか」というような意味で、衣通姫が一夜妻である証明となっている。
なぜなら、衣通姫は機織姫だからで、『日本書紀』神代紀第九段一書第六に「火瓊瓊杵尊が、笠狭の御碕に至り、長屋の竹嶋に登り、その地を順賀した時に見つけた『織経る少女』は、『磐長姫』と『木花之佐久夜毘売』だった、そして、木花之佐久夜毘売は、一夜にして懐妊した。という話があるからだ。
かぐや姫の手紙が燃やされた富士山山頂にある浅間神社の祭神は木花之佐久夜毘売だ。このときに生まれたのが海幸彦や山幸彦で天皇家の祖先となる。彼らが生まれた場所が『加世田郡竹屋』で現在は竹屋神社がある。またかぐや姫を天香具山と関連づけると、天香具山は『籠山』と書かれてきた。『籠』は竹冠に龍で、小野小町は仁明天皇のときに、
千早振る神も見まさば立ち騒ぎ天の戸川の樋口開け給へ
と詠んで見事に雨を降らせた事から『雨乞い小町』とも『龍神の生まれ変わり』とも呼ばれていた。つまり籠は竹に小町ということ。丹後一之宮籠神社は吉佐宮の候補地でもある。こうして竹に関係するものばかりに収束しているのだ。
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
日本では、中世から江戸時代にかけて行なわれた後妻打ち(うわなりうち)がありますからね。正妻の嫉妬はおそろしいことは昔からみんな知っていることだったのですね。
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
古代日本は女性が強いときもあって、神功皇后は明治まで天皇としてカウントされていたくらいでした。明治という時代にいろんな史料が失われたのが大きな損失です。奈良公園ってあんなに広いのは廃仏毀釈で東大寺の伽藍が壊されたからですし。
磐長姫は既婚で南方民族がよくやる刺青をしていたからという説もあって、文献だけではわからないことがたくさんありますね。
美しくないと表現されている磐長姫は
神話では親元に返されてますが、姫で幸せな人は少ないのかしら
と思ってしまう話の展開ですね。
籠神社お参りしたことあります。