竹取の翁とかぐやの大事なおはなし その8
- カテゴリ:勉強
- 2021/10/01 16:55:50
もともとは水銀や鉄を知る「丹」に関係する人々を蜘蛛と呼んでいたものが、時を経るに従って、朝廷に逆らう人々が「蜘蛛」あるいは「熊」と呼ばれるようになった。日本武尊が九州征伐は熊襲建(くまそたける)の討伐だった。出雲は蜘蛛が出てくるところであり、熊野も吉野も朝廷に対するレジスタンスが多く住んでいたところだった。だから、出雲は国譲りで土地を奪われ、熊野の長髄彦も神武東征で討たれた。吉野の兄猾(えうかし)を殺し、八十梟帥(やそのたける)を打ち破っている。共通するのは、どこも一大タタラ場であり、水銀精錬所だった。
新潟と群馬の県境にそびえる巻機山に巻機姫が住んでいた。この姫は小千谷縮に代表されるような機織りを象徴している姫だが、片目だと言われている。
楽楽福神という山に住んでいる一つ目の神がいる。楽楽福神は天目一箇命の系列に入り、鉄の温度を見るために片目を瞑る、あるいは溶鉱炉を見続けたために片目の視力を失うという、タタラ場では守り神とされる。また、溶
鉱炉で鉄や銅を溶かすためには1500度以上の高温が必要になるため、番子6人がふたつの組になって、3時間交替で鞴を踏んで風を送っていた。これを替わり番子といい、番子は長期間続けると片足がかならず悪くなった。隻眼片脚はタタラの職業病だった。
高田崇史「QED 竹取伝説」によると。
「鑪(たたら)は、野鑪と永代鑪に分けられる。野鑪は、露天の鑪のことで、十日間晴天が続かないと仕事にならなかった。一方、永代鑪は、建物の中に粘度で竈-炉を築き、その両側に送風装置として蹈鞴や天秤蹈鞴を置いた。そして、炉の中に砂鉄と木炭を交互に入れて、鞴で送風するんだ。ちなみに、鋼の原料の鉧(けら)は四日三晩で、銑鉄の原料の銑(ずく)は四昼夜でできる。いずれの場合も、炉壁の粘度が溶解して保たなくなった時、送風を止めて炉を壊すんだ。ここまでを『一代』という。君が代で歌われている。『千代に、八千代に』という『代』は、本来は、この『一代』のことなんだ。タタラが幾代も続いて、数限りない鉄製品が『君』に送られますように、という意味でね」
竹から生まれたかぐや姫は衣通姫であり小野小町だった。彼女たちは棚機津女であり、帝の一夜妻だった。竹嶋で帝に捧げられた棚機津女は木花之佐久夜毘売で、彼女は竹屋で彦火火出見尊=山幸彦を産み、かぐや姫が帝に残した不老不死の薬と手紙が燃やされた富士山の山頂の浅間神社に祀られている。棚機津女は七夕の女という意味で織姫のこと。七夕には笹=竹が付き物でタタラ場の蜘蛛たちは笹=砂鉄の精製で目をやられて片目になった。
こんにちは^^コメントありがとうございますm(__)m
諏訪には鉄鉱山があったみたいなので、タタラがあってもおかしくないですね^^
ずくができないとお金にならないからっていう理由かもですよ。
「ずく」がなかったので罵倒の言葉として
「ずくなし」が生まれたのかなと思ったり(笑)
こんばんは^^コメントありがとうございますm(__)m
古事記に出てくる久延毘古(くえびこ)は山田のそほどのことで、案山子ですね。案山子は1本足なのでやっぱり製鉄関係だと思われます。
製鉄関係でタタラ場は朝廷に奪われることが多かったですからね、ホントに過酷です。
こんばんは^^コメントありがとうございますm(__)m
「ずくなし」って長野県の方言みたいですね。銑鉄からきているのは間違いないから、長野県のタタラ場から出たのかもですね。
ネットで調べたところ、ずくなしって言われるとそうとう凹んだって書かれてました。
いろんな部分に残っていくんだなぁ。
昔は製鉄がどれだけ、過酷だったかと言う事でもありますね。
最終的には君のために、反対からみれば
君がしっかり世を収めてくれるからこそなんでしょうけど。
京極夏彦さんなんかも書いてたような気がします。
「ずく」というのは長野にきてよく耳にする
言葉の一つで「ずくがない」「ずくなし」
という言い方が多いですねー。ざっくりいうと「働かないやつ」に対して
使う言葉の様です。わたしもよく地元の人に「私ってずくがないものですからー♪」
といいながら助けてもらうという高等戦術を使うことが(笑)