月下の幻視者―その10
- カテゴリ:日記
- 2009/10/19 06:21:20
西洋で月の美学を語るとき、絶対に外せない作家がいます。
それはフランスの象徴主義詩人ジュール・ラフォルグです。
月光とピエロの詩人と呼ばれたラフォルグの作品には
「地球のすすり泣き」「嘆きぶし」「聖母なる月のまねび」
などの詩集があります。
朱雀はフランス語が全く分からないので、ラフォルグの詩も
翻訳でしか読んだことがありません。
ですがルナティックな作品をとにかく芋づる式に片っ端から
読み漁っていた時期、詩人の魂まで紹介したといわれる
上田敏や、朱雀が詩を書く切っ掛けとなった詩人、中原中也の
翻訳でこのラフォルグの詩を読み、いっぺんに虜になって
しまいました。(笑)
上田敏はカール・ブッセの「山のあなたの空遠く幸(さひはひ)
住むと人の言ふ」で始まる「山のあなた」やヴェルレーヌの
「秋の日のヴィオロンのためいきの身にしみてひたぶるに
うら悲し」の「落葉」で有名な翻訳家です。
そして中原中也は「世界に詩人はまだ三人しかをらぬ。
ヴヱルレエヌ・ラムボオ・ラフォルグ ほんとだ!三人きり」
と日記に書き残したほどラフォルグに影響を受けています。
また先日紹介した梶井基次郎の小説「Kの昇天」の中にも
ラフォルグの詩「月光」の中の印象的な一節「哀れなる哉、
イカルスが幾人も来てはおつこちる」が引用されています。
そのラフォルグの詩はとにかく月とピエロしか出てきません。
毎度お馴染みの松岡正剛さん曰く「地球に対しての喪失感が
香ばしい」のだそうです。(笑)
ラフォルグの「月光」を途中までですが記載しますね。
「月光/上田敏訳」
とてもあの星には住まへないと思ふと、
まるで鳩尾でも、どやされたやうだ。
ああ月は美しいな、あのしんとした中空を
夏八月の良夜に乗つきつて。
帆柱なんぞはうつちやつて、ふらりふらりと
こけてゆく、雲のまつ黒けの崖下を。
ああ往つてみたいな、無暗に往つてみたいな、
尊いあすこの水盤へ乗つてみたなら嘸よからう。
お月さまは盲だ、険難至極な燈台だ。
哀れなる哉、イカルスが幾人も来ておつこちる。
以下略
太陽の子と呼ばれたランボオの熱さと比較され、ラフォルグの
冷光力が不遇をかこつ時代もありましたが、わずか27年の
生涯を月的精神で駆け抜けたこの詩人が朱雀は大好きです。
そんなわけで今日はラフォルグを啓愛していた中原中也の
「お道化歌」的気分で書いた詩をUP。
「夜に鳴く」
たとえば岸根の侘桜
無常の風に乱れ散り
梢(こずえ)震わせ夜に鳴く
たとえば巷の下がり猫
闇の戸口で振り仰ぎ
月を睨(ね)めつけ 夜に鳴く
頃刻(けいこく)の花
邂逅(わくらば)の交(か)い
現象はただ黙して語らず
たとえば無辜(むこ)の愚か者
心の跡を消す術(すべ)もなく
煢然(けいぜん)として 夜に鳴く

























いつもそこにあるものがなくなってしまうのは切ないですね。
でも生あるものはいつか必ず散る運命ですから、
逝ってしまった事を悲しむより、輝いていたその姿を
いつまでも忘れずにいたいと朱雀は思うんです。
日本では人が亡くなると、その命日にお墓参りをしますが
外国では、その人の誕生日や大切な記念日にお墓に
行くのが当たり前なんですよね。
鬼籍に入ったものたちともう直接会うことは叶いませんが
生きていた時のその輝きは、自分次第でいつまでも心の
中で生き続けさせることが出来ると思います。
出会ったすべてのモノ達の輝きを消さないようにしたいですね。
そこで長年住んだわが家も引越しを控えているのですが
それに伴いお向かいの家の八重桜と木瓜の木が、バッサリと切られてしまい寂しさに心痛んでいます。
ソメイヨシノが散り始めた頃に、枝もたわわに咲き誇った八重桜…
それに遅れて見事な赤い花を咲かせた木瓜の木は、毎年私の目を楽しませ
季節を感じさせてくれ続けていました。
仕方のない事とはいえ植物も命ある物、切り倒される時の木々の悲鳴が
今でも耳に響き続けているような気がします。
生活の変化には悲しみも付き物であると改めて感じる今日この頃の私です。