寂しさは続く
- カテゴリ:日記
- 2022/11/05 14:54:32
10月下旬に、母と妹、老犬のくり子と共に、県の中央にある湖と山へ行ってきた。恒例の秋の遠足である。いつも一緒だった愛犬りんごちゃんはもういないけど、遺骨を収めたキーホルダーを大事に持っていった。
出かける寸前、キャリーバッグに入れていたくり子がうんこを漏らし、慌てて皆で片付けをした。出発する時でよかった。
行きの道のりでは私が運転した。山間部を通りかかると、大きな虹が山にかかっていた。家族と共に、その大きさに驚く。道中、2回も虹を見た。
湖に着くと、急に風が出てきた。厚着をしてきたが、寒くてたまらない。震えながら、廃屋が多い土産物屋通りに行く。小雨も降ってきた。
母と妹が土産物屋にいる間、私は外でくり子と二人を待っていた。店の先には、小さな古い神社がある。なぜか気になって仕方がない。餅ときりたんぽを買った二人に、神社へお参りに行きたいと言うと、なぜ待っている間に行って来なかったのだと怒られる。寒さで気が立っているのだ。
しかし私が行くと言って聞かないので、母と妹は参道の途中までついてきた。
この神社は何年も前に一度お参りしたことがあるが、拝んだ直後に具合が悪くなり、あまり良い神社だとは思っていなかった。
だが、今回は、嫌な感じがしなかった。狛犬の顔を見たら、妙に存在感があるので、拒絶されてはいないんだろうと勝手に思い、先へ進んだ。
犬禁止とも書いていないので、くり子も連れて行くと、参拝を終えた女性の観光客が数人、くり子を見て可愛いと褒めちぎって行った。
社の前まで来て、くり子を母に預け、私は階段を登った。太い杉の木の前で、女性が一人真面目な顔をして木を見つめている。霊感でもあるのだろうか。
まあ確かに、この神社には古い良い気配がする。観光地の神社なんてスカスカな場所も多いのだが、ここはきちんと祀られているようだ。私が以前具合が悪くなったのは、引きこもりで暗い考えに取り憑かれていたから、波長が合わなかったのかもしれない。
本殿に着くと、女性が拝み終わって階を降りてきた。作法が段ボールの看板に書いてあったが、覚えきれず何段階か省略して拝んでしまう。
賽銭箱の横におみくじがあったので、100円入れて引いてみた。小吉で、苦境はまだまだ続く、神のように広い心を持って接せよとある。
待ち人はとても遅い、とあった。私の場合、待ち人とは新しい犬のことである。来ないとは書いていなかったので少しは希望が持てたが、苦境が長いという文章に軽く落ち込んだ。
今でも、りんごちゃんを思い出してつらい。ずっと前のブログに、心から喜びを感じる気持ちが死んだままだと書いたが、それは今でも続いている。
うつろな目をして、仕事をし、淡々とゲームをやる日々である。気持ちが沈んでいる時は、単調な作業ゲーが良く、ファイナルファンタジーXIVにはとてもお世話になっている。脇で動画を流して死んだ目でレベリングをしていたら、とてもはかどった。でも心底楽しかったことはない。
私の職場も、何人かが淀んだ表情をしている。家庭がうまくいっていなかったり、伴侶に先立たれてやもめになっている人が、イライラしたり、ため息をついたりして仕事をしている。家庭状況が悪く、ストレスで帯状疱疹になった若いのもいた。
昨日の深夜、仕事が終わって帰る時、信号待ちをしている私の車の後ろを誰かが横切っていった。横断歩道じゃないのにあぶねーなと思って見たら、同じく仕事を終えた、会社の若いやつだった。独身で、いつもスーパーの安売りパンばかり食べている男だ。肩をすくめて歩く後ろ姿が寂しかった。
みんなつらいんだな、と思う。
故水木しげるさんの著書で、死にたい人を救う術はない。でも自分が夢中になれること、すなわち幸せな気持ちになれることがあれば、死を考えることもなくなるだろうというようなことを読んだ。
私は希死念慮が昔から強くて、りんごちゃんもいない今なら特に未練もなく、りんごちゃんがお迎えに来たらいつでも良いですよという気持ちで生きている。事故とか事件とかでは死にたくないから、自然に任せるしかない。
最低に落ち込んでいる時は、北杜夫さんが書いていた自殺の文章が思い出される。知り合いと会っておいしいものを食べ、酒を飲み、帰宅後、寝る前に氷水で青酸カリを飲む。で終わる文章である。(『マンボウ博士と怪人マブゼ』より)
あれくらいスムーズに毒を飲めるなら、自死も楽だろうと思う半面、なんのためらいもなく毒を飲む描写にぞっとした。
心理描写もなく薬を飲むところが、希死念慮に囚われている人の心境をよく表している。ある日突然消えたくなる。それが、たまたまその日だったというだけ。
これを読んだ時、怖気が走った私は、まだ死にたくないのだろう。
そして今日も、なんとなく晴れない顔で仕事に行くのである。