Nicotto Town


ぴのぴののなんでも日記


『どうする家康 小牧長久手の激闘』から真っ先に!


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 休暇後初日は溜まったメールを読むだけでまる一日・・・。ペンディング消化は今週中にできるのかあ。それよりも、溜まった録画の方がよっぼどだいじなんだよなーーーっ。

 ではまず「小牧長久手の激闘」の考察します。
  •   前回くらいから石川数正出奔の伏線バラまきがいっぱいあり過ぎでしょ。もう次週、解答がでるのかあ。この伏線だけじゃ何でもありだけど。そして、今後の立ち回り方も見ものだね。
  •   秀吉の陣羽織のカッコ悪さ、ピカイチ。これって、ほんとに保存されてるんだろうか??四天王の決めポーズとワザと比較させて、ダッさくしてるんだろうか。
  •   なぜ秀吉だけ、みゃーみゃー喋るのか?今回、東海中部出身者はいっぱいいるんじゃないの??どこまでが名古屋弁圏かよく分かりませんが。
  •   先週の元武田軍の訓練の伏線が今夜の井伊直政赤備えにつながるのかー。納得。
  •   池田恒興、森半可の立ち回り、壮絶な最後が全然なーい。期待デカすぎたあ。
  •   中入り、中入りと何度も使うけど、あんまり大した作戦ではないんじゃない?岡山城留守居役はそれなりに覚悟してるんだろうし、背後、本城には当然、目を光らせてるよねえ。
  •   服部一族は何やってんだあーーー。
  •   ムロツヨシの滑舌が悪くて聞き取れない―。
  •   うーーーーーん。結局、このタイトルの激闘の勝敗はどっちだって言いたいのかあ。いくらググっても諸説あるみたいだし、この脚本家はどう解釈したのかがわかんない。織田信雄が総大将だったから、家康には負けていないというすり替えで秀吉は逃げたということ??         
 次週、数正退場話の1時間??ググらないけど関ヶ原まで生きているのか??全国民、納得の出奔理由での展開を期待して待ちましょう。
 
                      かな?
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2023/08/24 23:21
足軽の杉山孫六に狙撃され討死します。頭を撃ち抜かれたんだとか。
この時、長可の愛馬百段が主の首を狙って殺到する徳川兵を蹴散らしまくり、その隙に森隊の兵士が長可の亡骸を運び去った、という逸話があるんですが、やはり映像化は無理でしたね。
まぁ、どう考えても危険ですし…

長可討死が切っ掛けで戦いは徳川軍が優勢となり、池田恒興・元助親子も討死。輝政のみが戦線離脱に成功。
ちなみに、輝政は後に秀吉の仲介で家康の次女督姫と結婚します。
輝政は姫路城を改修して現在の美しい白い城にした人であり、割と有名な大名ですね。

こうして、長久手の戦いは徳川軍勝利で終了します。

長久手の戦いの同日、秀吉は家康不在の小牧山城を攻撃したり、中入り軍の大敗を知って救援の為に龍泉寺(現在はウォーターパークがあります)まで出張り、長久手の戦いの後に小幡城に戻った家康を朝駆けで攻撃するつもりが、夜のうちに家康が小牧山城まで戻ってしまったので楽田に戻るしかなかった、とかあるんですが詳細は良く分かりません。
まぁ、大軍の羽柴軍が寡兵の徳川軍に翻弄された、とは言えるかもしれません。

長久手の戦いの後、戦線は再度膠着状態に。
この後は、小競り合いは幾つかありますが、徳川相手の本格的な合戦は起こりません。徳川相手に限りますが。

秀吉のターゲットが変わるんですよね、今後は。

服部一族、というか服部半蔵は、多分伊勢の浜田城にいる筈です。
長久手の戦いと時期はずれると思いますが、羽柴秀長の伊勢攻めを受けるものの、織田信雄の家老(秀吉の調略を受けながら断った唯一の家老)滝川雄利に協力して浜田城を40日に渡って守り抜きます。
ただまぁ…信雄が、家康に無断で勝手に単独で秀吉と和睦(実質降伏)してしまうので、奮戦は無駄になってしまうんですけどね。
このあたりは多分次回ですね。
浜田城の事はチラッとも出ないでしょうけど。
何せ、次回の主体は秀吉の関白就任と数正出奔でしょうから。

滝田栄氏の家康の時は、徳川を守るための苦渋の決断で家康も同意の上でしたが、今回はどうするんでしょうね?

小牧長久手の戦いの勝敗は、戦術的勝利は家康、戦略的には拮抗(やや羽柴有利)、政略的勝利は秀吉、総合的には秀吉勝利と考えております、個人的にはですが。
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2023/08/24 22:15
家康が味方につけた根来衆や雑賀衆が、秀吉の本拠地である大坂に攻撃をしかけていたんですね。
また、土佐の長曾我部元親も阿波を平定して大坂を伺っている状況でした。
後背を脅かされているので、あまりのんびり構えていられなかったんですね。

そういう事情があって承認されたのではないかと思われる三河中入り策。
総大将は羽柴信吉(後の羽柴秀次)、先鋒は池田恒興・森長可、次鋒が堀秀政が務め、総勢は2万4千。
ドラマでは本多正信が中入り策を予見し空堀の構造を変更して対応していましたが、実際は多分最初から密かに外部に出られる構造にしていていたと思います。
羽柴軍の中入り策は、伊賀衆によって察知された様です。

中入り策を知った徳川軍は、まず小牧山城から南の小幡城に移動。そこから榊原康正率いる4500の先遣隊と家康が率いる9000余の本体が中入り軍を追います。
中入り軍は大軍ですが、纏まって行軍していた訳では無く、かなり縦長の状態で行軍しており、先頭の池田・森隊が岩崎城(尾張なんですが徳川の城)に達した頃、羽柴吉信隊はまだかなり後方でした。
池田・森隊は岩崎城を無視するつもりでしたが城兵から攻撃を仕掛けられたので迎撃し城を落としますが、この時間ロスが後々響く事に。

さて、総大将故に最後尾を進んでいた羽柴信吉隊は、白山林という地点で朝食休憩をとっていましたが、そこを追跡して来た榊原康正の先遣隊に急襲され、混乱の末壊滅状態。少し先を進んでいた堀秀政隊が急襲に気づいて取って返してくれなければ、信吉は討死していたかもしれません。
何しろ馬も捨てて徒歩で逃げ出していたそうですので。
信吉を逃がすために、多くの木下一族(多分寧々の親族?)が死亡したらしいです。
康正の先遣隊は、救援に駆け付けた堀隊の攻撃で損害を出して撤退。
ただそこで家康の本隊が、堀隊と池田・森隊(岩崎城を落とした後、吉信隊壊滅の報を受けて引き返してきました)を分断する様に間に入った為、堀隊は状況不利と見て撤退。

徳川軍と羽柴軍(池田・森隊)は長久手で対陣。
徳川の陣形は分かりませんが、羽柴軍は恒興が中央、息子の元助・輝政兄弟が右翼、長可が左翼を担う鶴翼の陣だったのではないかと推測します。
両軍の兵力はほぼ拮抗(徳川が若干多め)してましたので、戦いは一進一退で戦局が膠着しかけますが、長可が家康の本陣に突出して突撃をしかけた時に
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2023/08/24 21:27
こんばんは^^

改めて「小牧・長久手の激闘」について解説して行きます。
まぁ、激闘と言う割にはあまり合戦シーンは印象に残っていないのですけどね。
四天王というか、徳川三傑(本田忠勝、榊原康正、井伊直政)の見え切りはカッコいいな、と思いましたけど。
合戦より印象深かったのは、土塁と堀作りです。
まぁ、小牧山城の二重の土塁と空堀は、長久手の戦いに大きく貢献しているのは歴史上の事実なんですが。

小牧山城は信長が美濃攻めの拠点として築いた城で、実際に使用したのは4年程度でその後は廃城になったんですが、近世城郭のルーツになった、とも言われている城である事が発掘調査で明らかになりました。
小牧山城に陣を置いた家康によって改修された土塁や空堀も発掘されていて、堀を利用して羽柴軍にさとられない様に徳川軍が出撃できたことも、発掘調査で分かっています。
山頂には天守を模した小牧市歴史館がありまして、家康が築かせた土塁の断面が見られる様になっています。

さて、羽柴軍が実行しようとした三河中入り策は、秀吉の策であるとも、羽黒の戦いで敗北した森長可の汚名返上の為に池田恒興が献策したとも言われていますが、この辺りははっきりしません。
策が成功していたら大仰に吹聴するでしょうが、この中入り策は失敗に終わりましたのでね。
ちなみに中入りとは、対陣した両軍が睨みあっている時、兵力の一部を割いて敵が思いもよらない場所を奇襲する戦術の一つです。
成功すれば大ダメージを期待できますが、失敗した場合は兵力を減らすリスクがある、ハイリスクハイリターンな作戦と言えます。
また、中入りは信長が好んだ作戦である、とも言われています。
ただ信長の場合は、従える兵力が大きくなってからは中入りは使わなくなっていった様です。

献策であるにせよ自身の策であるにせよ、秀吉が三河中入り策を許可したのは確か。
実はこれ、秀吉らしからぬ策です。
秀吉の攻城戦は大軍をもって敵を包囲し、じっくり時間をかけて相手が弱るのを待つタイプです。
力攻めをすると敵兵力の3~10倍の兵力が必要で、また味方の損害も大きくなりますので、持久戦で対応するのが攻城戦の基本だろうと思っていますが、ここで問題になるのが兵站の維持力。秀吉はこれが得意。

ですが、小牧・長久手の戦いにおいて秀吉は得意の戦法を取り辛い事情がありました。
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2023/08/23 23:30
こんばんは^^

小牧・長久手の激闘についうての解説はまだ書いておりませんが(どう書こうかとあれこれ考え中)、秀吉の陣羽織について少々。

センスが悪い、というのには同意なんですが実際に秀吉はああいう派手なな陣羽織を着ておりました。
鳥獣文様陣羽織と言いまして、現在京都国立博物館に所蔵されています。
綴れ織りの絨毯を陣羽織に仕立てさせたものだそうです。

みゃぁみゃぁと言うのは、尾張弁かと思います。
今では相当な年配の方くらいしかしようしていないのでは。
「おみゃぁさん」とか「にゃぁで」とか…私は元々は京都出身なので詳しくはしりませんが。
三河弁だと、言葉尻に「りん」とついた様な?

あと、岡山城は備前国御野郡(現在の岡山県岡山市)にありまして、烏城とも呼ばれています。
白鷺城とも呼ばれる姫路城とは対照的な、黒い城です。
一級河川旭川沿いにあり、大名庭園「後楽園」は水戸の「偕楽園」、金沢の「兼六園」と並ぶ日本三名園の一つです。
丹頂が放し飼いにされていたと思いますが、今はどうですかね?
岡山を離れて久しいので現在の事は良く知りません。




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