Nicotto Town


ぴのぴののなんでも日記


『どうする家康 裏切り者』の考察をすぐに!!


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 ハードな日曜日のあとの即考察!まずは石川数正回の考察でしょう。今回の結末は諸説にかなっているんだろうか?新説なんか、折衷説なのか・・・。結果、松重温存の感動回で満足でしたが。

 では「裏切り者」の考察します。

  •  ・ 前回までの出奔伏線は、あんまりしっくりとは回収では無かったな。家臣不仲でも、買収でも、引責でも無し。まあ、それが狙いの目くらましだったのでしょうが。
  • ・まず、秀吉「関白」就任は大きいよなあ。知らなかったー、「征夷大将軍」より上かあ。やるじゃん。
  • ・真田一族登場!!佐藤浩市の大河連年登用は・・だけど。親父と真田兄弟のどっちが、なにしたか、要復讐。
  • ・数正は「出雲守」??島根県??松本城で睨みを利かせたんじゃ?
  • ・先週の「小牧長久手の激闘」の最後の勝敗の意味は、なあるほど、解決。解釈次第だよな。
  • ・松重大一番のセリフがあっただけに、今後は秀吉下深く潜伏し、家康天下取りの内通者として確定回だっだったとみましたがいかに。
  • ・いつが没年か不明ですが、「朝鮮出兵のさじ加減」「秀頼後見への誘導」「関ヶ原の下交渉」とかで、涙の御礼シーンが用意されてるのでは・・・・。
  • ・大阪城内のセットはもっと金かけてよね――。
  • ・聞き逃したけど今回の人質に「徳川秀忠」は入ってたんだっけ。するとどこかで取り返さなきゃなんないし。総大将だったから、家康には負けていないというすり替えで秀吉は逃げたということ??  
  • ・ここで出たあーー。於義伊!!忘れてたねえーー。偉い、あっぱれ母子。
  •        
 次は、タイトルなんだっけ。まだまだムロツヨシのいじめ対策か。しばらく合戦シーンはおあずけがつづくかあーー。最近、大河からのすぐ日曜劇場への切り替え、きっついです。
                      かな?
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2023/09/07 17:26
大坂城の絢爛豪華さは、廊下にズラッと並べられた蝋燭で表現していると思われます。
この時期の蝋燭は滅茶苦茶高価で、使えるのは大きな寺院くらいでした。
その高価な蝋燭を、特に人が多い訳では無い廊下に大量に並べた事で、下手なセットより大坂の底知れない財力を端的に表現出来ていると思いました。
家康の岡崎城や浜松城の照明は灯明ですからね。
信長の安土城はどうでしたっけ? あまり蝋燭の印象は無いですけど。

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2023/09/02 00:06
全軍撤退になった理由は、この時期に石川数正が出奔したからだ、とも言われています。

というわけで、ここからは数正出奔について、です。

石川数正の出奔の理由には、それこそ山ほど腐るほど諸説ありますが、明智光秀が何故本能寺の変を起こしたのか、と同じく「これだ」という説はありません。
数正の心情を綴った書簡や日記、覚書などが出てこない限り、これが真相だ、というものは無いと思われます。
ドラマでは、秀吉との外交交渉を担当してきた為、秀吉の軍事力だけではない経済力(壮麗な大坂城と城下町の繁栄だけで明らか)、関白と言う権威、等の徳川との圧倒的な差がある現状を知る数正が、それを知らずに主戦論を主張する本多忠勝、榊原康政ら家臣団とそれに賛意をしめす主君家康対し、無謀な主戦論を放棄させるための苦渋の決断としての出奔という結論を下していましたが、個人的には大いに同意します。

人たらしの秀吉に魅了された説、提示された恩賞に篭絡された説といった説もありますが、個人的には少々同意し辛いところです。

ただ、内通者・スパイ説も多分無し。
ドラマにおいて、さりげなく徳川に利がある様に働きかける事は有りかもしれませんけど。

秀吉の家臣になった数正に最初に与えられたのは、河内国8万石です。
信濃国松本10万石に転封されたのは、家康が関東に転封された後ですね。

秀忠が人質に出されたのは、小田原攻めの際です。
形式的なもので、いったん大坂に行ったもののすぐに江戸に返されています。
当然ながら、今回の人質に秀忠(長丸)は含まれていません。
人質(養子)に出されたのは次男の於義伊と数正の次男康勝(勝千代)だけです。
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2023/09/01 23:09
徳川勢は上田城の東側から攻撃を仕掛けます。
守りが堅い上田城の、唯一攻撃可能な方角が東側だったからです。

徳川の先鋒が神川(信濃川水系)に達したところで、真田軍200が徳川軍を奇襲。ただ多少槍合わせをした程度ですぐに上田城へ退却を始めます。これは徳川軍を油断させて誘い込むための昌幸の策なのですが、徳川軍はまんまと乗せられて上田城へと殺到。
この際に、真田方が仕掛けた千鳥掛けの柵を通っているのですが、この柵は進む時は特に抵抗なく進める為気に留めなかった模様。
歴戦の酒井忠次や智将榊原康正なら罠に気づいた可能性を否定できませんが(本田忠勝も野生の勘で危険に気づきそう)、二軍では荷が重かったかも。

勢いに乗った徳川軍が上田城の大手門を突破しようとした時、昌幸は東城門上に隠していた丸太を落として混乱させた徳川軍に、弓や鉄砲を撃ち掛けて反撃。徳川軍はここでかなりの被害を出します。
更にそこへ、山に隠れていた農兵や、砥石城に籠っていた真田信幸が背後から襲い掛かり徳川軍を挟撃。
徳川軍は退却を試みますが、それを邪魔したのが千鳥掛けの柵です。入る時は進みやすいのですが、いざ退却しようとすると互い違いの柵に引っかかって通りにくい事この上なし。
正に押し合いへし合いの徳川軍に、真田軍が駄目押しで火を放ちます。
大混乱の徳川軍は完全に統制を喪っててんでばらばら(正にてんでんこ)に逃げ出すのですが、相当な被害だったと思われます。

それでもなんとか上田城から逃げ出せた徳川軍は神川迄退却したのですが、ここで昌幸の次なる罠が炸裂。
神川上流で流れを堰き止めていた堰を切って一気に流した為、川を渡っている最中だった徳川軍は濁流となって押し寄せて来た水流に押し流され溺死した者数知れず、という事です。
この日の戦いでの徳川軍の死者は1300人にも上ったともいわれています。
対する真田方の死者は40人ほど。
三河物語では死者300人と過小記述してますが、さしもの徳川礼賛の三河物語でも糊塗しきれない大敗でした。

それでもこんな大敗したままでは終われない、という事で上田城は諦め近くにあって真田に味方している丸子城を攻めるのですが、結局こちらも攻めあぐねて二十日かかっても落とせません。
業を煮やした家康は井伊直政に5千の兵を与えて援軍に送りますが、結局上田城攻めは断念し兵を退かせます。
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2023/09/01 22:11
天正壬午の乱で徳川と北条が、甲斐・信濃は徳川、上野は北条、という線引きで講和したとしても、昌幸としては素直に沼田を返すわけにはいかない訳です。沼田は上野にありますので。

家康からは沼田を北条に渡せと言われていながら、昌幸は頑として沼田を固持し続けるんですね。
そうこうしているうちに、越後の上杉景勝が信濃南下を始めます。
これに対抗するべく堅固な城を作るべきだ、と昌幸が家康に進言し、後に真田の本拠地となる上田城を築城します。
ただし、真田の懐事情で城を造るなど無理なので、築城資金や資材は全て家康が出しています。
家康としては、いずれ沼田は北条に返させることになるので、その代替のつもりで城を造ってやったみたいです。
その結果、非常に堅牢な上田城が完成するのですが、昌幸は沼田の引き渡しを拒否した上に徳川を裏切って上杉にねがえってしまったので、家康も堪忍袋の緒が切れたとばかりに大激怒。
真田討伐の為、鳥居元忠・平岩親吉・大久保忠世(柴田康忠、大久保忠教、岡部長盛の他信濃諸将も加えます)以下公称7000の兵(実際は1万は下らなかったのでは、とされてます)を差し向けます。
これが第一次上田合戦の始まりです。
徳川四天王が率いる軍を徳川軍の主力とするなら、所謂二軍の兵ですね。
この時点で家康は、相当に真田を格下と見て侮っていたのでしょう。それが手痛い敗北に繋がります。

さて、昌幸は上田城本丸で籠城し、嫡男信幸を砥石城に入れます。
また、上田城東側には千鳥掛けの柵(互い違いに結った柵)を設置し、農兵3000を街や山野のあちこちに配置し、紙幟(かみのぼり)を立てさせ伏兵にしました。兵1200というのは農民兵を加えない純兵力ですね。

ちなみにドラマでは、真田信繁が徳川軍が攻め寄せて来た、と報告していましたが、この時は上杉に人質として出ていたと思われますので、多分上田合戦には参加していないと思われます。まぁ諸説ありますので、参加していたかもしれませんが。
また、昌幸が信幸相手に碁を打っていましたが、この時信幸は砥石城に詰めているはずなので、信幸相手の碁打ちはありえません。
とはいえ、碁を打ちながら徳川軍を待ち受けていたのは確からしいので、家臣の内の誰かだったのでしょう。
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2023/09/01 21:24
こんばんは^^

今回のタイトル「裏切り者」は、3人の人物を指していますね。
自分から徳川を頼っておきながら、秀吉と勝手に和睦(領地を削られてますので実質降伏)した信雄。
徳川から上田城を奪って再び寝返った真田昌幸。
一族郎党揃って出奔してしまった石川数正。
この3人です。ドラマは数正出奔に大きく尺を割いておりましたけど。

ドラマでは秒で終わってしまった上田合戦ですが、兵力1200の真田軍が公称7000(実際はもっと多かった筈)の徳川軍に完勝した戦なので面白いです。

さて、真田昌幸という人物は、武田信玄に仕えた真田弾正幸綱(海野氏の出)の三男ですので本来なら真田家の家督を継ぐ立場にはありませんでした。
その為、武藤家に養子に入り武藤喜兵衛と名乗っていました。
長篠の戦いで兄二人が討ち死にした為(昌幸も参戦していましたが、勝頼の旗本衆としての参加だった為戦死を免れた模様)、武藤家から真田家に戻って家督を相続します。

昌幸が徳川と対立する要因となった沼田城がある沼田領ですが、実は結構ややこしい背景があります。
真田家は元々は小県郡の真田荘という小さな領地しか持っていませんでしたが、幸綱が信玄に仕えてからは勢力を拡大し、昌幸の頃には真田荘の他に吾妻領・白井領を武田から委託される形で統治していました。
沼田領は、この吾妻・白井の隣に位置しており、昌降は沼田が欲しくてたまらなかった様で機会があったら切り取りたいと思っていた様です。
その機会が巡って来たのが、上杉謙信が亡くなった後の後継者争いである御館(おたて)の乱です。
謙信の養子景勝と景虎の争いですが、景虎が北条氏政の実弟だったので勝頼は氏政から景虎支援を依頼されます(北条と武田は同盟してましたので)。
しかし勝頼は景虎ではなく景勝を支援。景虎は敗れ自害に追い込まれ、その結果武田と北条の同盟は破綻。両者は上野を巡って争いを始め、この時勝頼の命令で沼田を切り取ったのが昌幸です。

ただ、その後武田は滅亡し武田領には織田軍が入って来ます。
織田信長は、昌幸の吾妻・白井・沼田の領有を認めず返還を命じ、昌幸は不満を抱きながらも強大な織田相手では逆らえない、と返還に応じるのですが、武田滅亡の2か月後に信長が本能寺で横死。旧武田領から織田軍が次々に撤退して行った混乱に乗じて再度沼田をとりもどしています。
このような背景から、





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