Nicotto Town


ぴのぴののなんでも日記


『どうする家康 徳川幕府誕生』まで来ましたねえー


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 いよいよ週末に、終日マイナス気温の「真冬日」予報が出てしまいました…。また「水道の水落とし」の時期が来るー。あと4回?の本作も段々と主要メンバーが退場していってしまったあ。最終回、寺島しのぶの正体が遂にわかるかどうかが注目!!

 では、「徳川幕府誕生」の考察します。

  • ・あっ、オープニングが変わった!!と思って見始めるも、なんかトーンは低いし、何より色調がモノトーンだし、「暗いー。」と感じての始まり。

  • ・この回を見終わって「服喪の回」だからのオープニングと解し、来週の復活に期待。

  • ・いったい足利義昭が将軍退位後、後継指名もせず、ほったらかしで、誰かに管理責任は無いのかあ。
  • ・「江戸幕府」と呼んだのはいつから?地名を後から付ける?「源幕府」とは言わないけど「足利幕府」とは言う?
  • よう知らんけど・・・。

  • ・ああ四天王の3人か逝去で遂に全滅の回・・・。
  • まず最高石高の井伊直政は言葉だけかい!!後継ぎは幹部になってのかな。井伊直弼まで続く名門なのに。
  • ・榊原康政、本田忠勝は3年前の先週は、戦場でギンギンだったはずなのに、この老け方かあー。目が見えないのにあの立ち回りは許す。

  • ・さてさて、やはり「関ヶ原遅着」は、何度も何度も使ってたねえ。結城秀康はとことん良い子に上げておいての「偉大なる凡庸」に落とし込むか。けど、そもそもは家康のお手付きがすべての原因じゃん。

  • ・秀頼ついに出た!!このひと今の「コタツの無い家」の無理やり高校生のひとり息子じゃないかあーーーー。こんな大役を並行してやる俳優か??

 うーーーーん、今回は先週からの勢いがパッタリと足踏みで、いささか不満足。最終回に向かって怒涛のたたみ込みを期待したい。
 残りは4回。
 ところで予告編の中で家康と話して坊主は??何とか寺の梵鐘いいがかりが来週?このペースなら大坂夏、冬の結末とナレーションでが最終回のラストシーンか?
                     かな?
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2023/11/26 16:50
成人した秀頼も遂に登場。
中々の美丈夫ぶりで、家康が危機感を覚えるのもやむなしかも、と思わせてくれました。

実際の秀頼は、身長197センチ体重161キロという巨漢だったらしいですけどね。
身長・体重から考えて、横綱白鵬と同じくらいの体格でしょうか?
後藤又兵衛の小姓の覚書で、世に無きお太り、と書かれるくらいですから相当なものでしょう。

家康が身長160くらいだったらしいので、197センチは脅威だったでしょうね。

次回は二条城での対面と方広寺鐘銘事件。
鐘銘事件は言いがかりと言えば言いがかりですが、豊臣側に悪意が無かったとしても迂闊すぎだったのは確か。
「鎌倉殿~」の頃よりはかなり緩くなっていると思いますが、諱を分断するのは呪詛でなかったとしても無礼極まりなかったでしょうからね。

関ケ原の後の一息つけた十年。足踏みではなく実際日本史的に大事件はおきていない、まずまず平穏な年月でした。亡くなった人は多いですが。
ですがまた、怒涛の展開になっていくでしょうね。
260年続く太平の時代の前の最後の大波乱が待っています。

予告で家康と話していたお坊さんは、以心崇伝(金地院崇伝とも言います)ではないですかね?
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2023/11/26 16:23
場合は面疔と呼びわりと危険。
特に目や鼻の周りは危険度が高いです。脳が近いですから、悪化した場合は死亡の危険性があります。

実は小1か小2の頃、眉間の辺りに面疔が出来て血相を変えた母親に医者に連れていかれた事があります。
もう夜だった筈なんですが、夜間診療をやっているところに飛び込んだのかな?
あまり詳しくは覚えていませんが、患部が凄く痛かった事と、放っておいたら死ぬよ、と母に怒鳴られた事だけ覚えてますね。
抗生物質の飲み薬と塗り薬であっさり治りましたが、これは現代ならではこそ(それでもン十年前ですが)。
江戸初期では悪化したら手の施しようは無かったでしょうね。

関ケ原遅参時、康政が家康に申し開きをしてくれた事で秀忠は康政に恩義を感じていて、病床にある彼を見舞う為に家臣や医師を派遣したそうですが、回復は叶いませんでした。

関ケ原では元気だった忠勝と康政の老け込み方に疑問がおありの様ですが、そもそも老化はじりじりと直線的に進むわけではありません。
ある一定のところでいきなりストンと一気に落ち込みます。そこからまたある程度までは少しづつ進んでいき、ある時またいきなり落ちる。この繰り返しです。
親の介護をしているとわかります。
もっとも、私は経験則で知っていますが知らない人は知らないでしょうから老け方に驚くかもしれませんね。
大戦の後で二人とも一気にきたんだろうなぁ、としか思わなかったんですけどね。

結城秀康は体躯にも優れ、武将としてかなり優秀だった様です。
ですが、秀忠とは母親の出自の差が大きすぎました。
秀康の母お万の方は神社の宮司の娘、秀忠の母西郷局(お愛の方)は名流土岐氏の流れを汲む女性。
土岐氏は土岐源氏ですから。
あの時代、母親の身分の差は後継者選びに大きく関与していましたので。

加えて、秀忠は武将としては凡庸だったかもしれませんが政治家としては家康以上の才覚の持ち主でした。
ドラマではぽや~としたポジティブシンキングの塊のような感じですが、政治では家康以上に冷酷だったと言えるくらいです。戦乱の時代が終わった後に必要な人材がどちらなのか、家康は良く分かっていたのだと思いますよ。
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2023/11/26 15:44
こちらは意図通りにはいかず、秀次が失脚した後はしばらく誰も任官出来ませんでした。関白位を手放したくない秀吉が認めなかった様です。
秀吉としては、秀頼成人後に関白位を渡したかったのでしょうけど…

関ケ原の合戦後、権力を掌握した家康の推挙で九条兼孝が関白となり、以降は以前通り五摂家が関白位を持ち回りで継いでいく事になります。

さて、今回涙を誘ったのは本多忠勝と榊原康政の死去ですね。
歴史上の事実として承知している事ではありましたが、柱の傷と共に年が進んでいくのが見ていて辛かったです。
特に忠勝…
主君を守って討ち死にするのが(もしくは主君と枕を並べて討ち死に)夢だと語っていた彼が、老いて目を患い戦国最強と謳われた槍働きが出来なくなり、守りたい主君より先に逝かねばならなかったのは無念だったろうと推測します。
彼の辞世の句は「死にともな嗚呼死にともな死にともな 深き御恩の君を思えば」です。
賜った御恩の深さを思えば主君家康公より先に死にたくない、死んでたまるか、と忠勝の心情の様に感じられます。

ドラマでは愛槍蜻蛉切を手入れしている最中、目が良く見えずに指にケガをしてしまっていましたが、同様の逸話があります。
小刀で持ち物に名前を刻んでいる時に指を傷つけ、「本多忠勝も手傷を負うようになってはおしまいだな」と自嘲するように話したそうで、その後間もなく亡くなったとされます。

また、ドラマでも何回も描き直させていた肖像画ですが、事実です。8回描き直させたそうです。
ドラマで描写された様に、死後も睨みを利かせる為にわざを怖い顔に描かせたのかもしれません。
あの有名な肖像画の他に、優しい顔をした忠勝像というものもあるそうなので(残念ながら見たことがないので絶対とは言い切れませんが)。

忠勝より4年早く亡くなったのが榊原康政。
ドラマでは悪いのは腸、おそらく癌を想定したような描写でした。
康政の死因は毛嚢炎(昔は疔(ちょう)と呼びました)と言われていましたので、ここは少しあれ? と思いました。思ってたのと違う、という感じで。
まぁ、疔だと最期を悟って終活の挨拶回りは出来ないと思うので、癌と思われる症状に変更したのかな、とは思います。
ちなみに毛嚢炎(疔)は、毛穴に小さな傷が出来てそこから菌が入り込む細菌感染症の一種です。
どこにでも出来る可能性はありますが、特に顔に出来た

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2023/11/26 14:49
こんにちは^^

関ケ原の合戦後、色々と戦後処理を行った後に徳川幕府が開府しました。
…がその色々な処理の中の一つである、石田三成の子供たちの処遇について少々。

昔は三成の妻子も皆佐和山で死んでしまったのかな、と思っていたのですが、奥方は確かに三成の死後すぐに亡くなっている様なのですが(後追いの自害っぽい)、5人の子供たちは全員生存していました。
嫡男と三男は助命されて出家、次男は弘前藩に逃亡(敢えて見逃された可能性も捨てがたい)、長女は家康の側室(数が多いので誰なのかは不明)の甥と結婚、三女は弘前藩2代藩主の正室、次女は会津蒲生家の家臣の正室、となっております。
特に次女(小石殿)の孫は、三代将軍家光の側室になったお振の方で千代姫を生んでおり、千代姫は尾張徳川家の御廉中(ごれんじゅう)になり、その血統は現在の皇室まで繋がっているのですから面白いものですね。
このように、家康は実は三成の子供たちに割と手厚いです。
三成の嫡男は石田重家と言いますが、「家」の字は家康が与えたものだとか。
当時はまだ「家」の字は徳川の通字にはなっていなかったかもしれませんが(康や忠が多かった?)、自身の名前の一字を与えたのですから、家康は重家の事をよほど気に入っていたのでしょう。

関ケ原の合戦の首謀者が通説通りではなかった場合、三成は責任をとってというより被せられて処刑された事になりますので、家康は三成に対して負い目があったので子供たちを助命した、という説が後々出て来る可能性もあるかもしれません。
今後の研究が待たれます。

というわけで、幕府開府。
ちなみに征夷大将軍の位は、足利義昭が返上した後は空位でした。
元々征夷大将軍というのは律令外の官位である令外官ですので、後継者が絶対に必要というわけではありません。
元々の意味は、朝廷の敵である蝦夷を征つ大将軍ですので。
アテルイを討伐した坂上田村麻呂は、二度も征夷大将軍に任ぜられて功績を残しています。
武家の棟梁という意味になったのは、源頼朝以降ですね。

将軍となった家康が、あまり間を置くことなく秀忠に将軍位を引き継がせたのは、征夷大将軍は徳川家が世襲していく、という意思の表れ、というのはドラマでも言われた通り。
秀吉が関白を早めに秀次に継がせる事で、関白は豊臣が世襲していく意思を明らかにしたのと同じです。




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