Nicotto Town



大人になるとエモは得難くなる

というか、そもそもエモを尊ばないようになることが大人になることかもしれない。

あるいは、エモという概念をキャッチするうぶ毛みたいなのが軒並み刈り取られ、ノスタルジーとか、五番街のマリーとか演歌とかになり、それを深みと呼ぶのが大人になることかもしれない。
……とか言っちゃうのは要は私が大人に一生なり切れないから言っているんだと思う。
家族や責任などの重みを伴わないふわふわした感傷と感情のあわいみたいなやつは、ともすると中二病であったりあまっちょろく存在しつづけるには軽すぎるのかも。

にもかかわらず、私はちゃんと年を取ってちゃんと納税して、ちゃんと資産運用をして早めの終活を考え始めて親の面倒を見ていて、ちゃんとしているはずでも、やっぱり演歌にも五番街のマリーにも昔の名前で出ていますにもシンパシーを感じない、それって重みや厚みかもしれないけど濁りでもあるというか、あまりにも言語化できすぎて生活臭しすぎるというか。


青葉市子の「いきのこり●ぼくら」を聴いて生きていることに対して本当かいっていいたいし、茫漠とした不安こそ本質だよねって言いたい。

こんな風でも、逆にあとしばらくして演歌好きになっちゃったとしても「なんか違うな、足りないからだなこの趣向は」って思って最後まですべてをわかることなんてできないだろうなぁ。

そうして、生々しく覚えていないからこそ生き延びていけるような、幸せな記憶があったりするものなのだ。

なんか生まれ変わりがあったほうがいいなと願うにはあんまり生きるのに向いてなさすぎるし、肉体重すぎるから、ちょっとそこは「生まれ変わりとか永遠の命あったらいいな」とか言えないけど、でも、知ることだけはできたらいいのにとは思う。数学も音楽も、政治学も経済学も、それから、いろいろな世の人が素晴らしいと言っている諸々も、百万回も生きてもわからないような気は若干するんだけど。




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