Nicotto Town



再生 1


 星に願いをかけたのは昔の話だ。
 そう遠くないことの筈なのに、それは昔のことだった。
 私たちの間に在る、ただそれだけのことで、時間も速さを変えてしまう。
 だから今は、星よただ頭上にあれと願うだけだ。
 ゆるい下り坂が続く。遠く、坂の終わりの角からふいに曲がって来た車のヘッドライトが、私の吐く息を白く光らせた。生のしるしが凍りついてひっそりと流れてゆくのを見る。誰も見ていなければ、生きていないのと同じになる。
 私が今ここにいることを、誰も知らない。
 私の吐き出した氷の粒が流れてゆく先に、給水塔の影が見えた。かつては雑木林が遮って、ここからは見えなかった筈だ。向こうの街明かりを背負って浮かび上がる給水塔は、何かのしるべのように高くそびえていた。
 惑わされるな、と私は自分に言う。
 それは今まで視界にはなかった。そしてまた、はるか昔にはなかった。それはいつか消えてゆく。だから不確かな存在だ。
 北風がいつのまにか雲を晴らして、冬の星々が瞬いていた。古のしるべは今も変わらず空にある。その確かさは、神の作りたもうたものにのみあるのかもしれなかったが、神という存在は人間の概念に過ぎないと私は考えるので、星はただ空にあるだけのものだった。だが闇の中の光は常に救いだ。だから、星はただ空にあれば良いのだと私は思う。
 風が冷たい。私の体温がそう感じさせている。私と風は別のものだ。皮膚によって隔てられた私の内なるものと外界と、世界は二つに分けられている。目に映る景色は少しずつ移りゆき、見えないものに姿を与えた言葉は容易く意味を変えてゆく。それでも私のこの皮膚のように、人が名付け人が意味を与えたあらゆるものが、個の輪郭という、世界の境界線を引いているのだ。ひとつひとつ、ひとつふたつと分けられた私たちの間には、どんなに近づいても触れ合っても隙間が生まれてしまう。
 そして見渡す限り、事実と呼ばれる、無数に交差する境界線を除いたすべては、容れ物を得たことでそこに留まる水のような流動体であり、私は何が確かなものであると言い切れない。ただ事実という容器が並ぶ世界で、私たちは私たちの間を流れる曖昧な言葉や出来事に流されてすれ違ってゆくのだった。
 だから私には、確信がない。




 坂下の駅から地下鉄で二駅、空を照らしていた街の足の下に私は居た。地下街は人々の靴音と声を四方から反響させて、ぶつかりあった音が砕け散ってゆくのが見えた。空気が濃いのはそのせいだろう。私は音の破片の隙間をくぐるように俯いて歩いた。ざわめきというのは砕けた音が擦れ合うことだ。時折、破片が頬や手をかすめる。数秒、私に痛みを残し、そのくせ欲しい音は何も聞こえてはこない。
 ざわめきの粒をかきわけて、探し続けている。
 電飾の瞬くウインドウと足早に過ぎる人波の色彩に眩暈がしそうだと思ったその時、目が合った。私にはステンドグラスが砕け散った破片のように見えるのに、その人はまるでジェリービーンズの海を泳ぐように、滑らかに近づいてきた。
 ああ、こんな人もいるのだ。
 まぶしくて目を細めた。
 その人は私に微笑みかけると、そっと私の手を取って歩き出した。冷たい手に熱を奪われながら、つるりとした皮膚とその下の指の骨のごつごつした感触に、その人が今ここに居ること、そしてまた先刻まで誰も私がここに居るのを知らなかったのに、今は私を知る人が居ることを実感していた。
 だから、私は今、ここに居る。
 地上へと続く階段から吹き込んだ風が私たちの間をすり抜けてゆく。風に揺れた前髪が視界を寸断し、私たちは危うく手を放しそうになる。
 この手を放したら。
 私たちは、居なくなる。




「生とはそうしたものですよ」
 その人は言った。
 地下の喫茶店で、その人は脱いだコートのポケットから煙草を取りだし、火を点けた。煙の昇る煙草を口にくわえたまま、カチ、と火を点けて「ほら」と言った。
 炎の先がオレンジに輝く。ふ、と火が消えた。
 カチ。
 炎が生まれた。
 ふっ。
 カチ。
 ふっ。
 カチ。
 ふっ。
「何度でも再生します」
 そう言って、ライターと煙草の箱を胸ポケットにしまった。私はその人の隣で、コーヒーカップを両手で包むように持って、「再生ですか」と問い返した。その人は「そう」と答えた。
「生は刹那の連続です。瞬間に完結している。人生は記憶の束に過ぎない」
 小さな声だった。黙り込んだ私に、その人が訊ねた。
「寂しいですか」
「…いいえ」
 本心ではなかったが、否定した。寂しいと答えるのも嘘のような気がした。
 今、私たちの肩と肩は十センチほど離れた距離にある。その隙間を流れてゆくのは、煙と、静寂と、時間だった。
「永遠は容易く手に入る。そう思いませんか」
「え?」
「生は完結した瞬間の連続だと言ったんです。この一瞬も記憶の連なりの中で繰り返し再生する。だから今のこの瞬間が永遠だと」
 その人はそこで言葉を切り、ふーっと煙を長く吐き出して目を伏せた。
「そう思いませんか」
「…それなら」
と私はカップを置いた。コトンと軽い音がした。
「永遠というのは終わったもののことなんですね」
「不変と同義であるなら、そうです」
 はっきりとした語調だったが、曖昧な答えだった。
 コツッと硬い金属音の深呼吸を一つして、振り子の時計が時を告げる鐘を鳴らし始めた。私たちは時計に呼ばれたように振り返った。
「行きましょう」
 傍らのコートを手にして立ち上がり、私を促して、その人はカウンターの向こうの店主に「ごちそうさま」と言った。私も立ち上がりながら「お払いします」と言うと、その人は「いいんです」と笑顔で私を見た。
「でも」
「いいんですよ。今日は」
 今日は?
「───くん、傘」
 店主が、聞き取れない程の小声でその人に呼びかけた。その人は、ふっと笑っただけで答えずに軽く右手を挙げて、くるりと背を向け店の扉を押した。私はその人の後に続いて、壊れて外れそうなドアノブに手を掛けた。地上へ続く階段が濡れている。雨が───と見上げると、外灯の光を反射して落ちてきているのは雪だった。
 どこまで行くのだろう。
 私はまたその人に手を引かれて、雪の降る夜の中を歩いていた。傘がない。その人の手が少しずつ冷えていくのが判って、私は「どこへ行くんですか」と訊ねた。
「どこへ行きましょうか。どこへでも」
 そう答えてその人はクスッと笑った。
「…ええ、私も」
 どこでもいい。この人と一緒なら。
 不思議な安堵だった。
 この人の側で、私は今、生きている。
 この人が居れば、私は生きられる───
「寂しくありませんか」
 ふいに、再び訊ねられた。言い方を変えただけで、それは胸に突き刺さった。
 私はずっと探していたのだ。この人を。
 私を生かしてくれる人を。
 その人は私の手をきゅっと握って、「熱い手をしていますね」と言った。

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