Nicotto Town



【小説】限りなく続く音 21


 車が山を越えると、町並みの向こうに海が見えてきた。
 その時、私の胸に広がったのは、やはり郷愁だったのだろう。もう何年、海を見ていなかっただろうか。
 私は大学進学を機に家を出た。東京の大学に進んで、一人暮らしを始めた。この故郷の海から離れるために、そして祖父の居た家から離れるために。
 草太の命を奪った海も、草太を孤独にした私たちも許せなかった。許さないと決めていたのだ。
 そうして、あの頃の私が生きた時間より長い時が流れた。
 あれから二十年。
 車を運転しているのは、六年前に結婚した私の夫だ。後部座席では息子が眠っている。息子は生まれて初めての海が楽しみで、昨夜はなかなか寝付かなかったのだ。
 この家で両親に会うのも結婚した時以来だ。父は孫の顔を見るなり抱き上げて、「よく来たな、オモチャいっぱい買ってあるぞ」と居間へ連れ去ってしまった。薄くなった髪や、痩せて出てきた頬骨が、祖父に似てきたな、と思う。しかし露骨に孫に甘いところは厳格な祖父に似なかったのか、そういう時代なのか。母は夫に気を遣って「遠かったでしょう、ゆっくり休んで」と労い、私たちを招いて先に家に入った。夫の後に続いて玄関の戸をくぐる時、軒先の風鈴の音がチリリンとあの頃のままに私を迎えた。
 居間では父が床いっぱいにオモチャを並べ、まだ眠そうな息子のご機嫌を取っている。私は台所でそれを横目で見て、テーブルにコップを並べて麦茶を注いだ。母が菓子器をその横に置いて息子を呼ぶ。わざとやっているのだ。お菓子と聞いて振り向いた息子を、父は膝にのせて捕まえた。
「…毎年夏が来ると、草太君を思い出すわね、どうしても」
 母が小声でぽつりと言うのに、私は「うん」と頷いた。母は「あの子もあんなわんぱくになるのかねえ」と息子を振り返って笑い、私に「海に入る時は、絶対に絶対に、気をつけなさいよ」と厳しく言った。
 今の私にはわかる。皆が草太の死で自分を責めていたこと。
 叔母は、祖父と和解していれば、と。
 母は、もっと早くに草太を探していれば、と。
 その場に居なかった父も、草太に満潮の時刻を教えていれば、また、もう少し早く帰宅していれば、と。
 そして叔父は、血のつながりなど気にせずに、もっと草太と話し合っていればと、それぞれに悔やんでいた。
 皆、悲しみを胸の海に沈めて、毎年夏を迎えている。
 それが、残されて生きる者のつとめなのだ。
 私が「お父さん、おじいちゃんに似てきたね」と言うと、母は「はげ方が同じ」と笑い、私の顔をしげしげと見た。
「千夏は昔っからお父さん似だったけど、今はどっちかって言うと、聡子さんに似てきたわね」
「え、そう…?」
「それなら、おじいちゃんも聡子さんと間違えるかもね」
と母は言って、麦茶を一口飲んだ。
「おじいちゃんが一時危なくなって、入院したでしょう。あの時、おじいちゃん、周りのことがわからなくなっちゃって、私を聡子さんと間違えたことがあったのよ」
「へえ…?」と私は菓子器のチョコレートをひとつつまんだ。
「私の顔見て、『聡子、よく帰って来てくれたなあ』って。『すまなかった』って私の手を取ったの」
 口の中に甘い味が広がった。私は「それで?」と頷きながら訊ねた。
「だから私、『私こそ、許してください』って言ったの。そしたらおじいちゃん、にっこりしてねえ。これはもう死んじゃうと思って。ほら、おじいちゃんが笑うなんてさ」
 私たちは「うん、うん」と頷き合ってクククと笑った。口から喉を通って、甘い味は胸を満たしていった。
 女性の社会進出が進んだ現代、『シングルマザー』と呼ばれ、偏見の眼差しで見られることも少なくなってきたとはいえ、未婚の母が生きるのはやはり厳しい。まして私たちが生まれた三十年も前の田舎町では、世間の風は冷たかっただろう。乳飲み子を抱えて働くことが、どれだけ大変か。祖父はただ、聡子叔母さんの幸せを願っただけだったのだ。
 叔母もまた、愛した人の子供を、授かった命を、ただ守りたかっただけだ。
 憎しみもなく、愛する者のために傷つけ合うことしかできなかった祖父と叔母。
「ああ、千夏、まだおじいちゃんにご挨拶してないでしょ」と言われて、私は慌てて麦茶を飲んで口の中のチョコレートの味を消した。「行ってくる」と立ち上がると、母は「ちゃんと千夏って名乗るのよ。聡子さんに間違われないように」と言って麦茶のコップを盆に載せた。
 夫を呼んで、二人で仏間へ行く。時を止めたように何一つ変わらない部屋で、時の流れる音を聴くように鈴を打った。
(おじいちゃん、千夏です)
 手を合わせながら思う。
 人はどうして、許し合うのが難しいのでしょうか。
 時の手助けを借りて、ようやく癒されながら、生きていくのでしょうか。
 いつか何もかもが跡形も残さず消え去ってしまうのでしょうか。
 誰が私を許してくれるのでしょうか。

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