「伝説の運転士、佐久間さん」

特急電車がホームに滑り込むたび、私は決まって胃のあたりを押さえる。車体の揺れと、独特の軋み音。たとえ最前列でも、窓際でも、酔い止めを飲んでも、どうしても逃れられない“あの気分”がやってくる。

私は特急で通勤している。通勤時間は片道1時間20分。途中下車できる駅はない。酔いとの闘いは、毎日の儀式のようなものだった。半ばあきらめ、感覚を鈍らせるように音楽を流し、スマホを見ず、景色も見ず、ただ目を閉じてじっと耐える。それが、いつものパターンだった。

しかし、あの日は違った。

その日も変わらず、私は駅のベンチに座り、いつもの特急を待っていた。けれど、列車が到着したとき、何かが違うとすぐに気づいた。ドアの開き方が、妙にスムーズだった。風切り音も、やけに静か。しかも、発車して数分も経たないうちに、私はある異変に気づく。

――揺れない。

正確には、まったく揺れないわけではない。けれど、いつものように“頭が前後にぐらぐらと持っていかれる感じ”がない。遠くで聞こえるレールの音も、どこか心地よいリズムを刻んでいる。

気づけば私は、スマホで記事を読んでいた。窓の外の風景も、視界に優しく流れていく。胃もムカムカしない。あれ？ と思い、軽く身を乗り出して前方の運転室を見た。

そこにいたのが――彼だった。

白い手袋に、キリッとした制帽。背筋をまっすぐに伸ばし、静かに前を見据えるその横顔は、まるで職人のような威厳と集中をまとっていた。運転士の名札には、こう書かれていた。

「佐久間」

私は思わず息をのんだ。

――まさか、あの佐久間さん？

噂は聞いていた。「どんな悪天候でも、まったく揺れない運転をする伝説の運転士がいる」と。鉄道ファンのブログで何度も目にした名前。「佐久間の日に当たったらラッキー」と言われ、まるで都市伝説のように語られる存在。

だけど、その日は現実にそこにいた。

列車は時間通りに進み、いつもの曲線も、坂道も、すべてが滑らかに感じられた。私は乗り物酔いに苦しむどころか、むしろ「この時間がもっと続けばいい」とさえ思っていた。

目的地に到着する頃、私は心の中でそっと敬礼した。

ありがとう、佐久間さん。

あなたのおかげで、私は特急を初めて「好きだ」と思えたのです。

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Epilogue（後日談）

その後も何度か特急に乗ったが、やはりあの日ほど快適な乗車はなかった。佐久間さんの勤務はランダムらしく、確実に当たる方法は今のところ存在しない。

だけど、私は今も願っている。

今日も、あの静かな奇跡がやってくることを。

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