Nicotto Town



【小説】再生 3


 ざわめきの破片は今や降りしきる雪と混じり合って、紙吹雪のように美しかった。くるくると回りながら落ちてくる光の切片が、私たちの髪や肩にとまり、水の粒へと還っていった。その人はふいに立ち止まると空いた手のひらで雪を受けとめ、じわりと溶けるのを見ていたが、その手をすっと私の目の前に差し出して言った。
「これは死でしょうか、それとも再生なのでしょうか。僕には生と死の区別がつきません」
「……」
 答えられずに見つめると、その人は大きな黒い瞳をまっすぐに私に向けた。私の答えを待っていたのか、そうではないのか、しばらくの沈黙の末に、
「…どちらでもいいのかもしれません。僕らは今、ここに居る」
と言って再び歩き出した。
 濡れて黒く光る道路の端に白い雪が積もり始めている。色彩の果てと果てが寄り添った境界線を、私たちは往く。
 ふいに視界がひらけた。黒い河が、夜の底をゆるやかに流れ、私たちの頭上を覆う空には雲が広がり、ビルや橋の明かりを反射して、青や緑に淡く光っていた。橋の明かりは私たちを誘うように連なり、河の向こうの闇に続いていた。
 ここはまるで生まれたての世界の入口のようだ。
 ここからなら、どこへでも行けるだろう。
 ───そんな気にさせる。
 それは希望にも絶望にもよく似た気持ちだった。≪生と死の区別がつかない≫ように。まるで以前どこかで出逢ったような人だ───
「…あなたは、誰なんですか」
「僕は僕です」
「違う…」
 なぜ今まで気付かなかったんだろう。当たり前のように私の手を取り、横に居て語り───もうずっと長いことそうしてきたような気がしていた。
 私は足を止め、その人の手をぐいと引いて振り向かせた。その人は真顔で私の目をじっと見つめた。大きな丸い目、闇のように真っ黒の瞳、少年のように幼さを残した顔立ち。
 ───この人は誰だった?名は何といった?
 思い出せない。
 先刻初めて逢ったのだ。なぜ私とこうしている?
「あなた、誰」
「あなたは誰ですか」
 ───私?
「こんなに熱い手をして」
「意味がわからない」
「わからなくても気付いている筈だ。わかりたくなくて目を閉じている」
 目なら───開いている。その人の顔がよく見える。
「それでもいい。けれどずっとこのままではいられないんだ」
 その人の言う意味がわからなかった。
 ただ、≪このままではいられない≫と言われて、突然胸が悲しみでいっぱいになった。
 ≪永遠というのは終わったもののことなんですね≫
 終わったことなのだ。
 涙が溢れた。
 その人が静かに言った。
「あなたは、亡くなっているんです」




 なぜ、いつ───といったことを、その人は訊ねなかった。私にも思い出せない。思い出したくないのかもしれなかった。私はどこから───来たのだろう。
 雪は後から後から落ちて来て、冷たい流れに飛び込んでいった。
 それが私に似ていると思った。
 なぜかはわからない。ただ、そう思って、河の流れに果ててゆく白い雪の、無数の祈りの声が響き合うのに耳を澄ましていた。
 私たちは橋の上に佇み、その声に応えるように水面を見下ろした。
 時折、私たちの後ろを走る車の音が通り過ぎる。揺れる水面の音だけが、静かに続いていた。私に、時を運んで来る音。
 人々は私に気付かず通り過ぎてゆくだけだった。だからどれほどの時が過ぎたのか、私にはもうわからない。今、こうして私の足の下を時が流れてゆくのを感じられるのは、その人が横に居るからだった。
 私はその人に尋ねた。
「なぜ、あなたは今こうしているのですか」
「僕にもわかりません」
 その人は橋の欄干に両腕を載せて寄り掛かり、背を丸めた。
「なぜ、僕の眼があなたのような人の姿をとらえてしまうのか、それは僕にもわかりません。ただ僕は、あの時あなたが僕を探していることに気が付いた。あなたの存在を認める者として、あなたはここに居ますよ───と、それだけを言いたかったんです」
 そう言って、その人は遠くを見た。
「…そうですね、きっと、あなたにそう言ってほしかったんだと思います」
 私は、ここに。
(目をそらさないで)
 遠い───もはや遠く、見えない遥かな場所へ流されていった、ある一瞬。
 それは私の中で繰り返す、すべてが終わった瞬間の永遠だったのだと───
 その人はコートの袖口にとまった雪のひとひらを指先でつまんで口に入れ、「つめたい」と言って微笑んだ。
「こうして行き場を失った瞬間は完結しながら次はどこへ行くのでしょう。わからないけれど、どこかへ行くんです」
と言いながら、その人はまた袖口から雪を指先に載せた。
「僕らももう、行きましょう。新しい場所へ」
 その手が私の前に伸びてきて、指先が唇に触れた。
 私はその指先をそっとなめて、雪を口に含んだ。
 舌の先に感じたその人の爪の固さと雪の冷たさ、瞬時に溶けて水に変わり口の中に広がった死あるいは再生の味───
 私は目を閉じた。

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