Nicotto Town



【小説】橋の下の家 2


 あれは夏祭りの夜だった。
 息子夫婦は昨年生まれた孫を連れて、花火を見に行くと言って出かけた。私は独り残ることにした。妻がまだ存命ならば、彼女が私も一緒にと連れ出しただろうが、私に祭りの人混みの中へと足を向ける気力はなかった。私は酒をグラスに注いだ。酒はグラスに半分程しかなく、食料庫を探してみたが、酒はもう残っていなかった。
 私は酒を買いに行くことにした。祭りの夜である。呑みたい気分だった。しかし酒場の賑わいは耳障りだ。酒瓶を提げて、川沿いに街への道を下った。
 街の広場には出店のテントが並び、赤鼻の親父の酒屋も港へ続く街道の入口に店を出していた。私は≪やあ≫と彼に声を掛けた。親父も≪やあ≫と答えた。息子夫婦は、浜で打ち上げられる花火を港から見るため彼の店の前を通ったらしい。≪あんたが来たら、たくさんは売らないでくれと嫁さんに頼まれたぜ≫と親父は赤い鼻を鳴らして笑った。嫁は酒の残り少ないのを知っていたのだった。≪こっちは商売ですぜと言ったら、だから少なく頼むってさ≫
 親父が≪ほらよ≫と返した酒瓶の口から、半分程の酒が揺れるたぷんたぷんという音が聞こえた。
 街の賑わいが遠くなると、川の流れと酒瓶は、たぷんたぷんと音を交わして、何か会話しているようであった。遠く、背後でドンと大きな音が鳴った。海の上に花火が上がった。頭の上で、空が瞬く間に色を変える。
 ドン
 ドン、ドンドン
 次々と花火が打ち上げられる。そのたびに川の面は空を映して、赤や青や緑の光の粒を撒き散らしていた。
 ドン
 辺りが明るくなる。私は橋の上に人影があるのを見つけた。目を細めたその時、再び闇が降りた。
 ドン、ドン、ドン
 赤い光に照らされて、細い人影は橋の欄干に身を乗り出そうと手足を掛けているのがわかった。身投げだ、と私は咄嗟に思った。
 やめなさい
 私は大声で叫んだ。人影は私に気づいて、怯んだように動きを止めた。私は橋に向かって駆け出した。酒瓶が急に重くなったように感じられた。酒瓶を土手に放り出して、私は再び川へ飛び込もうとする影へと走った。
 やめろ、やめるんだ
 ドン、ドン、ドン、
 花火の音が私の声をかき消してしまう。
 だが花火は辺りを明るく照らし出した。石造りの跳ね橋の上から今にも飛び降りそうな───女だ。まだ若い。
 私は彼女の両脚を抱え込んで、欄干から引きずり下ろした。私たちは橋の上に倒れて転がった。
 いったい何を───
 それ以上は、息が切れて声にならなかった。
 いったい何を騒いでいるんだ
 誰かの声がした。どこから───と、私たちは周囲を見回したが、橋の上には誰の姿もなかった。
 おい、これはあなたのだろう
 その声は軽い笑いを含んだ、若い男のものだった。私はようやく立ち上がると、声の主を探して土手を見下ろした。
 ドン
 橋の下で私の酒瓶を手にしてこちらを見上げる眼鏡の青年が青白い閃光に浮かび上がった。
 君こそ───気がついていたなら、
 あなたが来るまで気づかなかった。それより、これは捨てたんですか?
 私の言葉を遮って、彼は酒瓶を振ってそう言い、口の端を上げた。笑ったらしかった。
 私は傍らで放心する彼女を立ち上がらせ、一緒に来なさいと言って、二人で土手を下りた。一人にしたら、また身投げを図るだろうと思ったからだ。歩く意思さえない彼女を伴って、夜露に濡れた斜面と、走って痛みだした膝で、私はふらつきながら彼の許へ歩み寄った。
 数年前から、少し動いただけで体のあちこちが激しく痛むようになった。わずかな稼ぎで買う貴重な酒だ。私には他に楽しみもない。彼から酒瓶を受け取ると、私はふいに自分が何をしているのかがわからなくなった。
 ドン、ドン、───
 花火の音が遠くなる。
 草の上に座り込む彼は、花火にも彼女にも、そして私にも無関心だった。
 立ち去るきっかけがないのだ。
 私は途方に暮れて彼を見た。彼は鼻先や頬に掛かる髪に顔を隠すかのように俯いていた。何処かを見る黒い瞳。眼鏡が重たげに見えるのは鼻梁の細さのせいだろう。この大陸の端の田舎町から出たことのなかった私は、黒い髪を見るのは初めてだった。
 私は彼の向かいに腰を下ろした。どうしました、と彼が尋ねた。
 年をとると、少し走っただけで膝が痛んでね
 それなら休んでいくといい。何もありませんが、どうぞ
 まるで自分の家のようだな
 今はそんな感じですよ。───君も座ったらどう
 彼は彼女に、空いた場所を勧めた。彼女は何も言わずそこに座った。
 ドン、ドン、ドン、
 花火は続いている。しかし、誰も空を見上げなかった。
 彼女は俯いて放心していた。編み込んだ栗色の髪がほつれて青ざめた顔に影を落とすのが場違いに美しい。なぜあんなことをしたのか、と尋ねられるものか思案に暮れた。彼はシャツのポケットから紙巻き煙草を取り出して、私の前に差し出した。
 お客人に勧められる物がこれしかない。ご婦人に何も差し上げられず恐縮です
 彼女は反応しなかった。私は煙草を一本受け取って、酒瓶を真ん中に置いた。
 招いてもらったのだから、土産ということにしよう。…君もどうだね。少し落ち着くと思うが…
 彼はそれを見て、目の前の草の葉をちぎると、くるりとひねって盃を作った。同じ物を三つ作るとそこへ酒を注ぎ、一つを手に取り草の葉の盃を空けた。
 今夜はお祭りだ。音楽でもいかがですか
 そう言うと彼はまた一枚の葉を取って、草笛を鳴らし始めた。
 花火と私たちとの間の距離の分だけ、悲哀の混じった異国の旋律だった。

#日記広場:自作小説

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2025/09/06 11:54
> Ange。さん
舞台は架空の国です。
味わっていただけているなら幸いです。(*´꒳`*)
アバター
2025/09/06 10:15
どこの国にいる三人なのでしょうね。
いろいろ想像するのもまた味わい深い。



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