【小説】橋の下の家 3
- カテゴリ:自作小説
- 2025/09/06 12:16:44
その後の数日を、私はあの祭りの夜の余韻に浸って過ごした。
結局、彼女には何も尋ねることができなかった。彼にも同じであった。私もまた、何も尋ねられることはなかった。私達はただ、草の盃でゆっくりと酒を呑み、彼の吹く草笛の音に耳を傾けていた。冷たい川風が心地よくそよぎ、花火が終わり静寂が訪れる頃、落ち着きを取り戻した彼女が帰ると告げて、静かに立ち去った。私も辞することにして立ち上がり、彼に言った。
君のおかげのようだ。ありがとう
彼は目を見開いて私の顔を見つめた。暫しの間を置いて、彼はまた口の端を上げるだけの曖昧な笑みを見せた。
何のお構いもしませんで
本当に、まるでここが家のようだな
ええ
彼が目を細めて頷くので、私は何とも不思議な心地がした。
畑仕事も行商も、殆どを息子夫婦に任せるようになった。生活の貧しさを思えば、せめて飲み代の分だけでもと私も畑に出るが、思うように体が動かない。私は自分がもう長くないことを知っている。晩に呑む酒だけが私の安らぎであった。
だが、あの夜以来、独り呑む酒は味気なく感じられた。いつもと同じ赤鼻の親父の店の酒は、草の葉の青い香りを包んで、新鮮に感じられたのだった。
酒瓶が空になった翌日、私は夜を待った。
瓶を提げて家を出る。赤鼻の親父の店で酒を買い、戻りしなに橋の下へ下りると、そこには彼女が居た。
主はお留守のようですわ
そうか。…隣に、座ってもいいかね
彼女が頷いたので、私は彼女の隣に腰を下ろした。
あの時はお礼も言えず、気になっておりました。お名前も伺えなかったので、あれからここへ来てお待ちしてましたの
彼女はありがとうございましたと静かに頭を下げた。私はよしてくれ、もう気にしなくていいと言って酒瓶を置いた。
…帰らないのかね
ええ、まだあの方にもお礼を言っておりませんし
じゃあ、あれから彼はここには来ていないのか
はい
そうだろう。ここではない、本当の家が彼にもあるのだから。あるいは旅人だったのかもしれない。彼の髪の色や草笛の異国の曲を思い出して、私はそう考えていた。
彼はもう、来ないんじゃないかね
そうかもしれません。でも、もう少し待ってみます。…あなたはお帰りにならないのですか
少し、つきあうとするよ
たぷんたぷんという川の流れの音を、ただ聞いているだけで、酔心地になるようだった。静けさと、水の匂い、草と土の匂いに私は酔った。これだ。これがあの家にはないものだったのだ。
カサ、カサ、と草を踏み締める足音に、私達は振り返った。
彼は眼鏡の奥の目を見開いて私たちを見つめていたが、その目を細めると口の端を上げて───笑った。
いらっしゃい
おじゃましてるよ、と私は答え、彼女は祭りの夜の礼を述べた。彼は酒瓶に目を留めて、また草の盃を作り始めた。そして草の皿を敷き、そこにビスケットを二枚並べた。
まさかまたいらっしゃるとは思わなかったもので
彼女は君にお礼を言いたくて毎日来ていたそうだよ
ふうん
彼は無関心にそう答えた。あるいは、わかっていたのかもしれなかった。
…君はここへよく来るのかね
と、私は尋ねた。彼は、偶にと答えた。酒を一口啜る。草の匂いが喉の奥までしみるようだった。
子供がまったく無意味に言う悪口によくある…
彼はふっと笑って話し始めた。
おまえは捨て子だったんだ、というのがあるでしょう。僕もよく兄に言われたものだった。≪おまえは橋の下で拾われたんだ≫って
ばかばかしい話だが、と彼は川面に目を遣った。
しかし橋の下で拾ったという設定がなぜこんなにも浸透しているのかと考えてみたら、橋の下という場所が子供を捨てるのに適した場所だという結論に達した。物心つかない幼い子供が橋の下でどうなるか。運良く誰かに拾われるか、過って川に落ちるか、そのどちらかしかないんだ
彼は楽しげに話しながら盃に酒を注ぎ、それをつるりと飲み干した。
だから、僕は偶にここへ戻ってくる
……まさか、君は
ここに捨てられていたって?まさか
彼はハ、と短く笑った。
僕はね、人間とは皆、橋の下に捨てられた子供のようなものだと思っている。拾われるのも川に落ちるのも運命だとするなら、生きることは運命に見放されたということだ。そこにあるのは常に、これかと思えばそれ、それかと思えばあれの、嘘の連続と紙のように薄っぺらい現実だ。この世の大抵のものは、ジョークで出来ているんだ。いくらでもごまかしがきく
そう言って、彼は目を伏せ、盃の葉をきゅっと噛みしめて───微かに笑った。
ここからは世界がよく見える
彼の声は水音と混じり合い、遠く近く、ゆらゆらと聞こえていた。私は、悪酔いしているのかもしれなかった。