【小説】橋の下の家 5
- カテゴリ:自作小説
- 2025/09/06 21:42:30
眠れぬ夜が続いた。
あの後、私は言葉を失ったまま立ち上がり、家に戻った。それから暫く、あの橋の下へ行く気にはなれなかった。
朝の冷え込みは体に厳しかった。畑に出ても何もしないに等しい。嫁は私を気遣ってか、孫を私に任せ、家に居るようにと言った。孫の世話で一日が終わる。眠れずに起き出してこっそりと啜る酒は、味がしなかった。
ずっとこうして生きてゆくのか───こんなふうに。
思うように動かない重い体、味のない酒───
なぜだ。なぜ、もう私には何もないんだ。
答えは簡単だった。私は、老いたのだ。
この地に生まれて、畑で働く父を見て育った。成長した私は父について畑に出た。土を返し、種子を撒き苗を植え、虫を除き、収穫する。春には春の、秋には秋の野菜を街に卸し、この家に戻って来た。この家と街を繋ぐ、あの川沿いの道を、辿って来た日々。
あの道しか、私にはなかった。私の人生にあったのは、ただ一本の道だった。
だから、働けなくなった私にはもう、この家しかないのだ───
息子夫婦が畑に出る間、孫を見る。歩き始めたばかりの孫が、椅子に腰掛けた私の膝に掴まって立ち上がる。私は孫を抱き上げようと腕を伸ばした。
───もう何もない人生を生きるのだ。死ぬまで。
だが、それはいつ訪れるのか。こんなふうに、もはや何も変わりようのない日々を───
孫は日に日に育ち、重くなってゆく。何もかもがこれからだ。全てが不思議に満ち、知りたくて、欲しくて、小さな手を伸ばしている。孫の小さな手が私に伸びて、袖を掴んだ。強く引っ張って、私を引き寄せようとしている。孫にとっては、私もこの世の謎の一つなのだろう。
彼の姿が目に浮かんだ。
私の人生の、あの道の途中、橋の下に突然現れた人物。これも運命と名付けることができるとするなら、運命に見放されて死期を待つ私に、その時をもたらすのは彼なのか───
孫は懸命に手を伸ばして、私の体をよじ登ろうとしていた。抱いて欲しいのだ。私は孫を抱えて、胸の方へと持ち上げようとした。
手に力が入らない───
孫は私の腕からするりと抜け落ちた。
≪お父さん、お父さん≫
≪どうしたの、お父さん≫
孫の激しい泣き声に、畑から戻った嫁に呼ばれて我に返った。嫁は床に転げた孫を抱き上げた。≪何があったの、こんな、こんな……≫見ると、孫の額が切れて血が溢れ出していた。嫁は動転して叫んだ。
≪こんな怪我をさせて放っておくなんて、どういうつもりなの!≫
───何をしたのだ、私は…
いや、そんなつもりではなかった。だが……
その夜、私は酒を持たずに家を出て、あの橋の下へ向かった。