Nicotto Town



【小説】橋の下の家 6


 橋の下に人影が見えて、私はたまらない気持ちになった。
 ここに来れば何かが変わる。
 変わる筈だ。きっと───
 近づくにつれ、その人影が彼のものではないことに気が付いた。
 彼女だった。
 私の足音に振り返った彼女は、夏の夜から比べて更に線が細くなっていた。彼女は弱々しく微笑んで、またお酒を買いに行かれるのですかと尋ねた。
 いいや。君も、彼に会いに来たのかい
 いいえ。でも、今日、街で彼を見かけたの。郵便配達をしてるのね
 それは知らなかったと私が言うと、彼女は草の上にしゃがみ込んだ。私も彼女の隣に座った。彼女は膝を抱えて、目を伏せた。
 …それで、彼の言ったことを思い出して、ここに足が向いてしまったの。本当に、ここからは世界がよく見えるのね。いいえ、世界は姿を隠しているけど、本当はこんな場所なんだわ
 カサ、カサ、と彼の足音がゆっくり近づいた。だが私達は顔を上げなかった。わかりきっていることを確かめる必要はないからだ。彼は私達の傍らに立ち、黙って見下ろしている。その視線を感じるだけで、私達には充分だった。
 ずっと、待っていたの。今日こそ手紙が届くんじゃないかって
 彼が緊張した気配が感じ取れた。彼女は続けた。
 だけど、来なかった。きっともう来ないわ。何通も手紙を出したけれど、ずっと返事は来なかった…。あの人は約束したわ。きっと迎えに来るって。だから、信じて待ってた。遠く離れて、信じる他に何も出来ないんだもの
 彼女の声が震えた。
 …夏に、知り合いがあの人の街へ出かけると言うから、様子を見てくれるように頼んだの。元気そうだったって。それならなぜ、私に答えてくれないの?考えても考えても、わからなかった。…ううん、本当はわかっていた。わかっていて、それでも、私には信じる他に何の手だてもないのよ。だから何も言ってくれないんだわ。私が信じているから、あの人は自分の手で終わらせることができなくて、私を橋の下に捨てたの。私が川に落ちるところを見ないで済むように逃げ出したのよ。…だけど
 彼女は顔を上げて彼を見た。深い湖のような色を湛えたその大きな目から、涙がぽろりと落ちた。
 こんなふうに信じられなくなるのなら、あの人の手で川に突き落として欲しかった
 私は、祭りの夜に彼女が身を投げようとした理由がわかって、しかし彼女に掛けられる言葉など何もなかった。以前なら、もう忘れてしまいなさいとでも言ったのだろうが、今の私には何も言えなかった。
 彼女は信じるものを失った。私もまた、何も持たぬ身だ。
 私も顔を上げて、彼を見た。彼は真顔で私たちを見下ろしていた。
 …もう、終わらせて。でないと、信じてしまうの
 僕は君の恋人じゃない
 そんなことはわかっている!
 彼の冷たい言葉に、私は吐き出すように叫んだ。彼は目を見開いて───驚いたのだろう───私に顔を向けた。私は、割れた酒瓶からこぼれた酒のように言葉を吐いた。
 彼女はいつ落ちるとも知れぬ身に怯えて、それでも信じていたんじゃないか。私だってそうだ。病んで働くこともできず、孫に怪我を───いや、
 私は掌で額を押さえ、首を振った。冷静になれ。
 孫の怪我は、落ちた時に、古くなってめくれた床板で切れたものだった。深くはないが、赤子であることを思えばなお痛々しかった。後々まで傷跡も残るだろう。取り返しのつかないことをした、私に孫を抱く力もないために。
 …何を為すこともなく、死ぬまでただ生きるだけだ。働くことも、孫を抱くこともできぬこんな身で、あの家に居られない。他に居場所もない。それならもう終わりにして欲しいんだ
 彼は静かに、深く溜息を吐いた。
 …そうだな。僕らはそれぞれに、終わりを望んでいる。しかし運命は僕らを見放して、僕らは力尽きる日までただ川の流れを見つめているしかないのかと思っていた。だが…
 私達は顔を上げて彼の次の言葉を待った。彼は、ようやくいつものあの笑みを見せた。
 運命はやってくるものとは限らない。人が名付けてしまえばそれが運命だ。どうだろう?この中の誰かが、この三人の運命になる、というのは
 ……どういう…意味かね
 僕らの恐れている、あの結末───川に落ちるのは怖ろしいが、しかしそれは運命の名の許に安らぎとなる。そうだったね。君は恋人を信じる心に終わりを、あなたは死を待つ日々の恐怖に終わりを。僕は───いや、どうでもいいことだが
 ふいに彼は目を逸らして川の面を見た。彼の動きに、眼鏡の縁が月明かりを反射して小さく光った。
 人は運命に従うものらしい。本当のところ、運命に従ったと考えるのに過ぎないのだが。僕らもそうしようじゃないか。面白そうだ
 そう言って彼は目を細め、楽しそうに頷いた。




 この中の誰かが、この三人の運命になる。

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