傷つける言葉のお話。
- カテゴリ:日記
- 2025/10/04 11:11:05
傷つける言葉のお話。
私は今まで生きてきた中で、小学生の頃に本心ではきっと思っていなかったけれど言ってしまった言葉がある。
「◯ね」や「◯す」等の言葉を人に向けて使ってしまったのだ。
それを当時反省する事は出来なかったし、そもそも周りも喧嘩になればそう言い合う様な学校だった。
ついでに言えば、小学生の頃の私は命の価値なんて知らなかった。
更に言えば今も命の価値は良くわからない。
私は「◯ね」と言う言葉がこの世で最上位の罵倒だと思っていた。
ただ実際問題、私は人に今「◯ね」と言われたところで何も思わない。
その理由はそういった言葉以上に、痛い言葉があるからだと思っている。
という事でAIとお話だ!
となって仕事の合間にAIに罵倒をしてもらったのですが、
「無能」 「役立たず」 「期待してない」 「あの人はそれくらい出来るのに」
の様な、人間の「尊厳」を踏みにじるような言葉が最も人を傷つける言葉らしい。
そして、
「あんな奴いなければいいのに」
の様な、自分の「存在」を否定されるような言葉もまた、人をとても傷つける言葉らしい。
凄く納得した。
誰かに評価をされる事を目的に仕事をしている私は、確かにその様な事を言われたら1週間は寝込むかもしれない。
ただ現実問題、大人になったら誰かに評価をして貰える機会なんてそうそう無い事だと思う。
だから素直に人を褒める事の出来る人は素敵だと言うお話。
私もそうでありたい。
今の体育祭は騎馬戦も棒倒しも無いのですね…。
怪我のリスク等の観点からなのかもしれないですが、私は組体操で人間ピラミッドの最下段だったのですが、半袖短パンの体操服で砂利のある校庭で四つん這いになった時の方が苦痛でしたけど、別に嫌な思い出と言うよりも笑って話せるレベルの話で、騎馬戦も棒倒しも例えそれで怪我をする事になっても大人になったらいい思い出になるのではないかな、と思ってます。
漫才の規制等も、どうしても行き過ぎたコンプライアンスが表現の自由を邪魔している気がします。
ネットが普及しすぎて便利になって、本来届くはずの無い悪意のある言葉が世間に広まってしまいやすくなってしまった結果、人の目を常に気にして生きていかなければならなくなってしまったのかな、って私は思います。
モコさんのコメントに対して私は「文句」だとは思いません。
私には何も出来ないですけど、それでも昔の方が楽しかった。
そういった感覚が共有出来るのは今でも出来る私なりの楽しみだなと思ってます。
こちらこそコメントして頂きありがとうございます…!
兎に角世の中が面白みがなくなってきたという感じです。
うんどうかいの「体育祭」男の子の騎馬戦だ、棒倒しなどが中止になったり、
テレビ界の漫才をされる方たちの規制があったりと、楽しかったことが、
少しずつ減らされていってるんですよね。
ここで、文句を言っても仕方ないですね。
有難う。コメ返くれて。
私も幼い頃は記事に書いたような言葉に類似するような、いわゆるわかりやすい暴言が一番傷つく言葉だった様な気がします。
私がまさにそうなのですが、私は「怒り方」がわからないと言った感覚があって、昔はもっと「怒る事」が上手な人がいて、そして「怒られる事」に慣れていく過程を踏めたからこそ立ち向かうと言う精神が得られたのかな、と思ったりします。
現代社会において人に対して昔と同様に発言してしまえば、ハラスメントだって騒ぐようになってしまったあたりから、なんだか言葉の自由が失われていくような感覚でちょっと寂しいですね…。
暴言でも、暴言でも無くとも双方の自由が時が進めば進むほど無くなっていく様な気がします。
昔はそのように言われて、腹が立って言われなくする努力をしてきた人達がたくさんいたはずです。
傷つける言葉に、立ち向かうという精神が無くなってしまっていますね。
人の心が弱くなっていってるんだろうと思います。
現代社会を反映しているんだと思います。