Nicotto Town


悠遠の夢語


追悼は出来るのに。

ニコッとタウンに戻ってきて早くも2ヶ月経った。

昔私はこの場所でどの様な活動をしていたかを考えると、サークルを立ち上げてカフェで雑談をする事と、タウンのおしゃべり広場で知らない人と話す事くらいでそこまで日記を書いていた記憶はない。

当たり前と言えば当たり前の事だけれど、8年ぶりに戻ってくればニコッとタウンを愛している人だったり私のように戻ってきた人だったりで、人生の先輩と言える方にコメント等で意見を頂けたり雑談を楽しんだり出来る。
元々人から見られたいと言う望みはそこまで無かったけれど、今は誰かに見られる事に嬉しいと感じる自分もいる一方で、また失う事を恐れる自分もいる。

「失う事」の最大の形は私にとってはその方が生きていると自分が認識出来なくなる事だと思っている。
その中で「死」と言う言葉はあまりにも私が何かを語る際に皮肉な事に都合が良い。
だから今回は、振り返りから始まった記事ではあるけれどここからはタイトル通りのお話をしようと思う。

死んでから評価される偉人が数多く存在しているように、偉人とは言えずとも身近な所に「自分にとっての偉人」と呼べる存在は意外といるのかもしれない。
その方が亡くなった時に「追悼」する方は沢山見てきた。
でも生きている時にその人に伝えるべき事を伝えていなかった人もまた沢山見てきた。
追悼する事よりも、今生きている人を評価して自分の気持ちを全部伝える事の方が何倍も私は大切だと思っている。

死後の世界の存在は信じたい。
だけどあるかどうかわからないのだから、生きているうちにもう「語り尽くした」と言えるくらいに、自分の気持ちを伝えた方がきっと後悔しないのだと思う。
追悼は出来るのに、生きている人に気持ちを伝えられない事はとても悲しい事だと思う。
そしてその悲しさはきっと、自分の枷にもなると私は思う。
だから自分の為にも、相手の為にも。
生きているうちに認められて、評価されて欲しい人と思う人が沢山いるからこそ、そう思う。

それだけのお話とも言えるし、これからのお話でもある。

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