日本文学史シリーズ①「源氏物語」概要編
- カテゴリ:日記
- 2025/12/31 15:44:43
平安時代中期に成立した日本の長編物語小説で
一世源氏である主人公の光源氏が、藤原氏と関わりながら政権復帰を目指す、その栄華とかげりを描く物語である。
光源氏や、女性主人公とも言える藤壺や紫上、そして嘲笑の対象である末摘花の姿と意識さえも、一世源氏や皇族の出身として造形されている。絵合わせなどの対決では終始、専門家の作品よりも元皇族の光源氏や皇族の作品を風流で良いと褒め称えている。
下級貴族出身の紫式部は、「源氏物語」の内容について一条天皇から『日本書紀』など漢文で書かれた日本の歴史書への見識をほめられるなど、幼少より日本と中国の歴史書、和歌、漢籍、漢詩の理解に優れていた。藤原宣孝と結婚(紫式部の年齢は不明)し一女をもうけたが、結婚後3年ほどで夫と死別する。
その後、具平親王家をモデルに書いたと言われる光源氏の三帖を書き始め、これが『源氏物語』の始まりともいわれる。具平親王の子孫の源麗子は「源氏の物語を書きて、奥に書き付けられて侍りける はかもなき鳥の跡とは思ふとも我が末々はあはれとも見よ」と『源氏物語』に対する格別な思い入れを歌にした、『源氏物語』を具平親王家一門の誉とし「祖父の具平親王をモデルとした三帖なくして『源氏物語』五十四帖はありえなかった」という格別な思いがあったといわれる(『紫式部伝(斉藤正昭)』)。当時、紙は貴重で、紙の提供者がいればその都度書き、具平親王家一門と共有したとされる。
当時、政治・行政など多くの公的文書は外国語である漢文で書かれ、漢文が必須の男性貴族に対し、女性貴族には不要とされその読み書きができず漢詩や漢籍なども理解しない者が多かったが、天皇の妃である中宮には『白氏文集』など漢詩の教養が要求され、その才に秀でた女房が教育にあたった。一条天皇の代では、一条天皇の中宮になった彰子には紫式部が漢詩を教えるなどした。宮中に上がった紫式部は、この宮仕えをしながら藤原道長の支援の下で物語も書き続け、54帖からなる『源氏物語』が完成した。
物語の概要は、更衣(原文では更衣の記述はなく「女御とさえ呼ばれなかった」女性)が産んだ玉のように光る美しい第二皇子は父宮に愛されていたが、父宮の第一后の産んだ第一皇子がいたので、政権に巻き込ませないよう父が臣下させ源氏を賜る事となった主人公光源氏の栄華復活とかげり、その死後子と孫の物語の全54帖。第1帖~第41帖は「光源氏」を軸に描かれ、第42帖~第54帖は「薫」を軸に描かれる。なお、執筆された11世紀初頭は国風文化の最盛期で、時代を反映し、紫式部は自身の和歌や他者の物語作品と同じく、『源氏物語』の記述には漢字(漢文 万葉仮名・男手)ではなく平仮名を使用している。
時代設定は醍醐天皇の御代に擬せてあり、一条朝より100年ほど前の歴史物語となっている。そのため一条朝では廃れた行事や楽器、地位などが登場する。『源氏物語』の「桐壺巻」は「どの御代であったか、女御・更衣が大勢お仕えなさっている中に(現代語訳)」から始まっているが「更衣」自体が一条天皇には存在しなくなっており、源氏の存在にしても一条朝では公卿に上るのも難しい地位なっているため、読み手は平安初期からの政治、皇族、源氏の成り立ち、文化、常識、風習、社会制度の知識が最低限必要とされる。
『源氏物語』は初出当初より貴族を中心に好評を博し次々と写本が繰り返されて読まれた。当時、貴族階級の男女ともに和歌は必須で重要だったが、漢文については対照的で、漢文の読み書きができず漢籍や漢詩がわからない者が多かった女性貴族に対し、政治や行政の公的文書は漢文で書かれたため、男性貴族は漢文の読み書きが必須で漢籍や漢詩の教養も重視された。
そのため、国風文化の影響のもと『竹取物語』をはじめ主に平仮名で書かれた物語作品は貴族女性やその子供向けの読み物として、漢籍や漢詩そして和歌に比べて低く見られた時代で、『源氏物語』も他の物語同様に平仮名で書かれたが、紫式部の漢籍、漢詩、和歌、歴史の知識と見識の深さが随所に生かされ、それらの知識が必須の男性貴族からも学べるとして読まれた。一級文化人の藤原公任も読んでいた事が紫式部日記から伺える。
その150年ほど後の平安時代末期、栄華を誇った貴族階級の没落と武士階級の台頭という時代の変わり目に、『源氏物語』は、「絵」と「詞書(説明文)」から成る『源氏物語絵巻』として絵画化された。現存する絵巻物のうち、徳川美術館と五島美術館所蔵のものは国宝となっている。また現在、『源氏物語』は日本のみならず30ヵ国語を超える翻訳を通じて世界各国で読まれている。
源氏物語が紫式部によって「いつごろ」「どのくらいの期間かけて」執筆されたのかについて、いつ起筆されたのか、あるいはいつ完成したのかといった、その全体を直接明らかにするような史料は存在しない。『紫式部日記』には、寛弘5年(1008年)に源氏物語と思われる物語の冊子作りが行われたとの記述があり、そのころには源氏物語のそれなりの部分が完成していたと考えられる。
安藤為章は、『紫家七論』(元禄16年(1703年成立)において、「源氏物語は紫式部が寡婦となってから出仕するまでの3~4年の間に大部分が書き上げられた」とする見解を示したが、これはさまざまな状況と符合することもあって有力な説になった。
しかしその後、これほどに長い物語を書き上げるためには当然長い期間が必要であると考えられるだけでなく、前半部分の諸巻と後半部分の諸巻との間に明らかな筆致の違いが存在することを考えると、執筆期間はある程度の長期にわたると考えるべきであるとする説や、結婚前、父に従って越前国に赴いていた時期に書き始められたとする説、作中の出来事が当時の実際に起きたさまざまな事実を反映しており、最終的な完成時期をかなり引き下げる説も唱えられるようになってきた。
一方で、必ずしも長編の物語であるから長い執筆期間が必要であるとはいえず、数百人にも及ぶ登場人物が織りなす長編物語が矛盾なく描かれているのは短期間に一気に書き上げられたからであると考えるべきであるとする説もある。
Wikipedia参照
⇒【俺の読み解き】
紫式部が藤原道長とデキていたという説があるが、
それは本当ではないかと思う。
一条天皇に献上するために書かれたというこの長編物語は主人公が道長であったらどう感じ、どう憧れるか。
それを念頭において書かれたようにも俺は感じた。
道長と式部の間で何かが揺れ動いていたことは、
おそらく俺が感じている通りの読み物だと思う。
読んでくれた方へ。
どうもありがとうございました!
教養としてたまに「日本文学史シリーズ日記」書きますので
見かけたらまた読んでみてください。
ゆーま






























