Nicotto Town



霧に消える

トロンハイムの桟橋に、一人の女が立っていた。
あるいは、それはかつての自分という幻影だったのかもしれない。
アンカレッジの滑走路で置き去りにしてきたはずの、未練という名の重い荷物。
「ここで終わりだ」
言葉は霧に吸い込まれ、波の音に消えていく。
俺たちは、太平洋を越えるあの長い夜を、ただの「隣席の他人」として過ごすべきだった。
アラスカ航空の機体が吐き出した冷たい熱気のように、熱く、そして瞬く間に冷めていく。
彼女の瞳には、北極圏の氷河と同じ、拒絶の輝きがあった。
俺はポケットから、二人の名前が刻まれた古いライターを海へ投げた。
鈍い水音がして、波紋が広がり、そして平穏が戻る。
これが、最後の物語にふさわしい、湿り気のない幕引きだ。
「さよなら」
彼女が背を向けた時、トロンハイムの時計塔が一度だけ鳴った。
それは旅の終わりではなく、他人として生きるための、始まりの合図。
俺はもう、振り返らない。
霧の向こうに消えていく背中を見送ることも、もうしない。
スカンジナビアの厳しい冬が来る前に、俺は新しい孤独を抱きしめ、歩き出す。

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